密告と殺戮!奈良時代、それは血で血を洗う争乱が続いた時代だった。【後編】
平城京を中心に東大寺・興福寺・春日大社などの寺社が建立され、国際色豊かな仏教文化が花開いた奈良時代(710~794年)。その舞台である奈良は、悠久の歴史ロマン溢れる場所として親しまれています。
しかし、奈良時代の実態は、そうしたイメージと全く異なり、全時代を通じて、天皇・皇族・貴族の間で、血で血を洗う争乱が続いた時代でした。
なぜ、奈良時代に血なまぐさい争乱が続いたのか、後編でも前編同様、その理由を政争史に的を絞りながら、奈良時代の歴史をお話しましょう。
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密告と殺戮!奈良時代、それは血で血を洗う争乱が続いた時代だった。【前編】
わずか3日間で絶頂から奈落の底へ落ちた仲麻呂
橘奈良麻呂のクーデターを抑え、絶頂期を迎えた藤原仲麻呂でしたが、760(天平宝字4)年に光明皇后が亡くなると、その権勢に陰りが生じてきます。光明皇后は、仲麻呂にとって政権の後ろ盾だけでなく、孝謙天皇との間を取り持つ存在であったのです。
仲麻呂と孝謙の関係は、淳仁が即位した頃からこじれ始めていました。それに拍車をかけたのが僧・道鏡の存在です。生涯独身であった孝謙にとって、法力により病を癒した道鏡は、単なる祈祷僧ではなく、恋人関係にまで発展していたとされます。
そして、ついに仲麻呂・淳仁と孝謙の間が分裂が生じました。762(天平宝字6)年、孝謙は、国家の大権を行使するのは自分であることを表明。さらに、764(天平宝字8)年には、大権の象徴である駅鈴と内印(天皇御璽)を武力で奪います。
こうした孝謙の動きは、仲麻呂が密かに兵を集めていることを理由しているものの、実態は、仲麻呂の機先を制したものであったのです。そして、仲麻呂の反乱を宣言すると、三関を固め、仲麻呂一派を一気に追い詰めていったのでした。
窮地に立った仲麻呂は、平城京を脱出、八男・辛加知(しかち)が国司として赴任していた越前を目指すも、官軍に阻まれてしまいます。そして、琵琶湖の西岸・三尾崎で捕えられ、妻子もろとも斬首に処されたのです。[恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱]