「天災は忘れた頃にやってくる」と寺田寅彦氏は語っています。
近年、日本で起きた大震災でも同じです。
過去に同じような災害は起こらなかったのか?
なぜ人は災害に見舞われたことを忘れてしまうのか?
という方も多いかと思います。
ここでは安政大地震について取り上げました。
地震の規模と被害、そしてどういう震災後に対策が打たれたのかを見ていきます。
内閣府の公式資料等を根拠にこの記事を執筆しています。
2分ほど短時間で読める内容で、かつ現在話題になっている大河ドラマ「青天を衝け」に絡めた部分があります。より幕末と災害について詳しくなるような内容です。是非ともご一読を!
安政の大地震発生! 江戸を中心に多数の死者を出す
安政2年10月2日(1857年11月11日)、午前10時頃。江戸湾北部を震源とするマグニチュード7クラスの地震が発生しました。世にいう安政の大地震(安政江戸地震)です。
江戸を中心とした地域は地震による被害を受け、多くの死傷者を出しています。
予想される震度は、強いもので震度6以上という強いものでした。大名小路(現在の丸の内)や麹町付近や本所、深川を中心に震度6以上、日本橋や銀座、霞ヶ関、永田町などが震度5だったと考えられています。
地震の被害は江戸以外の周辺地域にも波及。横浜の一部(神奈川区)や木更津や松戸で震度6、水戸や佐倉が震度5の揺れに見舞われています。
震度5以上の地点を地図上に示すと、ある法則が浮かび上がります。
関東平野の東側はほぼ円形に、西側には大きくくびれた曲線となります。これは関東平野の西側の多摩丘陵から丹沢山地にかけて固い地盤が分布していたためです。
安政の大地震の死者の中には、歴史を変えた傑物もいた!?
この地震では、当時の幕府要人も被災しました。その一人が水戸藩の側用人・藤田東湖です。
東湖は前藩主・徳川斉昭(当時は海防参与)の腹心でもありました。
『正気歌』、『弘道館記述義』の著者としても知られ、尊王攘夷運動に大きな影響を与えた人物です。
震災の当日、東湖は小石川の藩邸を訪問。一度藩邸内の自宅に戻った時に地震の揺れに見舞われました。
東湖は自身の母親と一度は脱出することに成功します。しかし火鉢の火を心配した東湖の母が屋敷に戻ってしまいました。東湖も母を追って屋敷に戻ります。
そこで東湖は母を庇い、落下してきた梁を肩で受け止めました。
家老の岡田兵部らが救出に駆けつけると、東湖は母親を脱出させます。東湖は安堵したのか、そのまま梁の下敷きとなって圧死しました。
腹心の死に、水戸藩の前藩主・徳川斉昭は大いに悲しみました。
安政の大地震による死者は、大名屋敷の三分の一で出ていた
大名屋敷は266家のうち、三分の一を超える116家で死者が発生しています。顕著な被害を受けたのが、丸の内の大名小路にあった55家の屋敷です。ここはほぼ全てが何らかの被害を出しています。
旗本や御家人の死傷者数は不明ですが、建物の被害は全体の約80%と推定されます。
大名小路は、親藩や譜代の大名屋敷が立ち並んでいたためにその名前で呼ばれます。さらに大名小路には、勘定奉行や南北の町奉行所、評定所が置かれていました。一帯には当時の行政機関が集中しています。
江戸は「武士の街」と言われます。まさにこの大名小路こそ武士の街といった様相を示す区域でした。
一方で麹町は多くの町人が居住した地域です。江戸の山の手の中でも、屈指の人口密集地域であったため、被害は格段に大きくなりました。