室町幕府のひきこもり「足利義政」の偉業 〜得意と趣味を貫いたリアル具体例:2ページ目
自分の「推し」と「息子」の後継者問題が火種でも「ひこもる」
義政は、妻「富子」との間になかなか子供ができなかったことから、出家して仏門に入っていた弟「義視」を9代目将軍と定めました。
しかし翌年、富子が息子「義尚」を出産。
弟の「義視」を将軍に推す義政と、息子の義尚を次期将軍にと望む富子は不仲となり、後継者問題などから「山名宗全」と「細川勝元」が対立。
11年も続き、戦国時代の幕開けとなった「応仁の乱」が起こるキッカケとなりました。
京都は火の海となり多くの死者も出ましたが、義政は知らぬ存ぜぬで、京都の東山にある別荘に逃げ込みひきこもってしまったのです。
楽しい楽しいひきこもり生活
戦いや政治の面ではダメダメだった義政ですが、芸術のセンスは抜群でした。
好みの庭園をつくらせたり建物を建てさせたりしたほか、庭師の「善阿弥」や能役者の「音阿弥」などの文化人に金銭的援助もおこなっています。
また、得意な和歌を詠んだり、茶道や華道を発展させたりもしています。
義政にとって、それはそれは楽しいひきこもり生活だったことでしょう。
義政のセンスが築いた東山文化
閑寂ななかに美しさや奥深さを見出そうとする「わび・さび」にも通じる義政の感性は、東山文化を築き、のちに世界からも賞賛される結果となりました。
とくに「応仁の乱」が終わってから建てられた「銀閣」は、地味でありながらもすっきりと美しいつくりだと絶賛されるほか、義政の祖父が建てた「金閣」と比較されることも。
江戸時代に「金閣寺」と比べられ、もともとの「慈照寺・観音殿」から「銀閣寺」と呼ばれるようになった経緯からも、どれだけ比較されたのかがよくわかるでしょう。
金ピカで派手な「金閣」とは対照的で地味な「銀閣」ですが、書院造という建築仕様は、畳や障子、ふすまなどを使用した現代の和風建築にも生かされています。