栄華を誇った帰雲城、天正大地震で一夜にして忽然と姿を消す:2ページ目
天正大地震発生、帰雲城一帯が地中へ沈む
内ヶ島家は、戦国時代が進むにつれ、鉱山経営で莫大な富を築いていきます。所有する鉱山は金山が六つ、銀山が一つというほどでした。
戦国期の内ヶ島家の居城は、白川郷のほぼ中央にあたる保木脇(ほきわき)にある、帰雲(かえりぐも)と呼ばれる地に築かれました。この土地の語源には、雲が帰る場所という意味合いがあったと言います。
内ヶ島家は、帰雲城の他にも旧居城・向牧戸城、荻町城、新淵城などが支城として構えています。最盛期の勢力範囲は飛騨国から越中国にまで及んでいたと伝わります。合戦においては、飛騨の姉小路頼綱や越後の上杉謙信の侵攻も撃退。帰雲城は難攻不落の城でした。
尾張国の織田信長が台頭すると、内ヶ島家は接近を試みます。
当主・内ヶ島氏理(うじよし)は、本願寺との盟約を破棄。安土城の造営に多額の献金を行います。さらに毎年、一定の金額を上納することで本領安堵が許されました。
氏理はその後、織田家臣・佐々成政に従軍。内ヶ島勢は魚津城の戦いでも活躍し、陥落に貢献しています。内ヶ島家が軍事的にも経済的にも、織田政権の深いところまで食い込んでいたことがわかります。
しかし本能寺の変が勃発すると、内ヶ島勢は飛騨国に帰国しています。
天正12(1584)年、羽柴秀吉と徳川家康との間に小牧・長久手の戦いが勃発。このとき、内ヶ島氏理はかつて味方した成政に味方して越中に出陣しています。
しかし留守中、羽柴秀吉の配下・金森長近が飛騨国に侵攻。金森勢は白川郷にまで攻め込んで来ました。
向牧戸城、荻町城は懐柔によって寝返り、帰雲城も占領されます。氏理は国許に引き返しますが、結局は降伏することとなりました。
しかし戦後、内ヶ島家は帰雲城をはじめとする本領安堵が認められます。秀吉は内ヶ島家の鉱山師としての技術を高く評価していたようです。
結局はここでも経済力によって、内ヶ島家は命脈を保つことが出来ました。