蹴鞠はただの遊びじゃなかった!伝統的なしきたりと儀式的側面も併せ持つ不思議なスポーツ:2ページ目
蹴鞠の名人が見た鞠の精霊とは?
平安時代に蹴鞠の名人とされた藤原成通(ふじわらのなりみち〈1097ー1162年〉)は、稀代の名人として「蹴聖」といわれています。
順徳天皇の『禁秘抄』の中では「末代の人の信じがたいほどの技芸」と記されており、清水の舞台の欄干の上を鞠を蹴りながら往復したり、従者の肩の上でリフティングしたなど、信じられない逸話が残っています。
その成通があるとき千日間毎日練習を行うという誓いをたてます。そして成就したその日に顔は人間、手足は猿の姿をした鞠の精霊が3体現れ、その名前が「夏安林〈アリ〉、春陽花〈ヤウ〉、桃園〈オウ〉」だったため、その後の蹴鞠の掛け声になったといわれています。
蹴鞠の流派
蹴鞠の流派は難波・御子左・飛鳥井という、公家のなかでも御所に昇殿を許された「堂上家」と呼ばれる上流貴族のみでしたが、賀茂神社の神主など地下(じげ)と呼ばれる位のものたちによる流派も現れました。
下鴨神社では祭神の賀茂建角身命が金鵄八咫烏の化身であるとされ、そのため球技上達のご利益があるとされており、現在も1月4日に「蹴鞠初め」という行事が行われます。八咫烏は日本サッカー協会のシンボルになっていることはいうまでもありません。
ちなみに藤原成通が上達祈願のため50回以上も通ったという熊野本宮大社も、神武天皇を導いたのが八咫烏であることから、球技の御利益ありとして崇められています。藤原成通は熊野本宮大社で、妙技「うしろ鞠」を奉納したと『古今著聞集』(巻十一)に書かれています。かかとで蹴り上げたのではないか、と推測されますが、実際どんな技だったのか興味は尽きません。
公家の流派のうち難波流・御子左流は衰退しましたが、飛鳥井流は徳川将軍家に家元として認定されたこともあり受け継がれました。明治になると天皇によって蹴鞠を保存するようにとの勅命があり、明治36年御下賜金をもとに蹴鞠保存会が創立され、飛鳥井家の屋敷跡にあたる白峯神宮が蹴鞠保存会の稽古場となっています。
いつか、神社での「蹴鞠はじめ」を見学しにいきたいものです。