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主君を幾度も変え一兵卒から大出世を遂げた戦国武将・藤堂高虎に学ぶ能力開発【後編】

主君を幾度も変え一兵卒から大出世を遂げた戦国武将・藤堂高虎に学ぶ能力開発【後編】

緩急を使い分ける交渉力

このように実務家として活躍した高虎でしたが、江戸幕府の大名となった晩年に挙げた大きな功績の一つが

「徳川秀忠の娘を天皇の后にするための交渉をまとめたこと」

でした。

家康、そして秀忠は江戸幕府(徳川家)の権威を高め、朝廷に対しても影響力を行使するために天皇家との婚姻を望みましたが、朝廷側は当然ながら警戒します。さらには当の天皇に隠し子が発覚するなどして事態は泥沼化しますが、幕府側の責任者となった高虎が

「この婚姻が成らぬ場合は、私はこの場で腹を切って死ぬ」

と公家たちを恫喝し、強引に押し切ったとされています。全身疵だらけの巨漢に睨まれたら、私なら泣く。絶対泣く。

とはいえ、高虎は力押ししかしなかったわけでもないようです。

高虎は宇和島を与えられ独立した大名になった頃から、藤原氏の末裔を自称するようになっていました。その関係で、藤原氏のトップであり最高ランクの公家であった近衛家に接近します。

近衛家の側も、心中では「何だこの成り上がり者は」などと思っていたかもしれませんが、武力も経済力も持っていた高虎と誼を通じることは好都合だったのでしょう。両者の間には長く友好的な関係が結ばれていました。

さらに高虎は(見た目は傷だらけのマッチョですが)文学や能、茶の湯にも通じており、他の公家や文化人たちとの交流もありました。

以上を踏まえると、公家たちとのコネを見込まれて幕府側の責任者に任命され、当初は友好的な関係に基づいて交渉を進めていたが、ここぞという時に強硬な手段で押し切って交渉を取りまとめた、というストーリーが思い浮かびます。

いずれにせよ、平清盛以来、実に400年ぶりに「武家の娘が天皇に嫁ぐ」という快挙(あくまで江戸幕府にとって)が実現したのは、高虎の交渉力あってのことでした。

3ページ目 藤堂高虎の能力開発・まとめ

 

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