日本史上で最大級の反乱と言えば、平安時代の天慶3年(940年)、関東地方に覇を唱えて「新皇(しんのう)」を自称した平将門(たいらの まさかど)。
他にも朝廷に対して大規模な反乱を起こした者はいるものの、自分が天皇に成り代わる「新しい天皇」すなわち新皇と称した例は、後にも先にもこれ限りです。
さて、そんな大事件が東国で起こっているほぼ同時期に、西国でも藤原純友(ふじわらの すみとも)が、瀬戸内海を股にかける大反乱を起こしています。
両者を合わせて「将門・純友の乱」あるいは年号から「承平天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱」とも呼ばれますが、平将門はともかく藤原純友についてはあまり知られていない印象です。
(※もしかしたら、それは東国に住んでいる感覚であって、もしかしたら、西国在住の方から見れば逆に感じるのかも知れませんね)
そこで今回は、平安時代の日本を大いに震撼せしめた西国の大海賊・藤原純友について紹介したいと思います。
名門の生まれだが、出世競争からドロップアウト
藤原純友の生年については諸説ありますが、ここでは寛平5年(893年)、摂関家として栄華を極めた藤原北家(ふじわらほっけ)の末裔・藤原良範(よしのり)の三男として生まれました。
このまま順当に行けば本家の威光でそれなりの出世が望めたはずですが、早くに父を亡くしたことで後ろ盾を失い、都での出世レースから脱落してしまいます。
現代人の感覚だと「出世は本人の努力や能力(+運)しだいじゃないの?」と思ってしまいがちですが、平安時代の貴族社会は家柄やコネが出世に大きく影響しました。
誰だって我が子が可愛い(あるいは自分の息がかかった手駒を推したい)……となれば、バックアップのない若造が、努力や実力だけで出世競争を勝ち抜くのは至難の業。
こうして早々にドロップアウトした純友は、しばらくこれと言った(記録に残るような大きな)お役目もなく、無聊をかこっていたようです。
そんな暮らしが続いた承平2年(932年)、純友のいとこおじである藤原元名(もとな)が伊予守(現:愛媛県の国司)となり、現地へ赴任する際に純友を誘いました。
「なぁ、海賊退治に力を貸してくれないか?」
「そうだなぁ……このまま都で腐っているより、よっぽどいいな!」
かくして伊予掾(じょう。国司のアシスタント的存在)として元名に随行した純友でしたが、赴任先での体験が、その後の人生を大きく変えていくのでした。
4ページ目 ミイラ取りがミイラに?海賊になった純友の元へ……。