「理想の女性」にただ一つ欠けていたもの…源氏物語の正ヒロイン「紫の上」の憂鬱【上】:2ページ目
二人を襲う数々の試練
かくして紫を連れて帰った光源氏は、さっそく彼女に「理想の女性」となるよう英才?教育を施しました。
もともと利発だった紫は、真綿が水を吸い込むように才智を備えて生来の美しさを健やかに伸ばしていく中、光源氏の正室・葵の上(あおいのうえ)が祟り殺されてしまいます。
葵の上は光源氏の従姉に当たり、本来なら春宮(とうぐう。皇太子殿下)妃になる筈だったのに臣下である光源氏に嫁いだためか、プライドが邪魔をして素直になれず、ようやく打ち解けたと思った矢先に死別。
「こんなことになるなら、いっそ冷淡なままの方がよかった……」
「そんなことを言ったら、奥様がおかわいそう。たとえ最期のひとときであっても、心から愛し合えることこそ、夫婦として何よりも尊いのですから」
まだあどけなさを残す少女でありながら、誰に対しても深く思いやりを持っていた紫の成長を慰めに喪の明けた光源氏は、紫の裳着(もぎ。女性の成人式)と共に彼女をパートナーに迎えたのでした。
「これからは比翼の鳥、連理の枝(※1,2)が如く生きて行こう」
「えぇ……」
両親から疎まれていた可憐な少女が、誰もが羨むパーフェクト貴公子に見初められ、二人は末永く幸せに……暮らせたら「めでたしめでたし」だったのですが、そうは作者が卸しません。
「理想の女性」をパートナーに迎えたはずの光源氏でしたが、その後も(紫が一番とは言え)ガールハントがやむことはなく、ついには春宮の側室・朧月夜(おぼろづきよ)の君にまで手を出してしまい、彼女が政敵の妹だったからさぁ大変。
「これは朝廷に対する謀叛ぞ!」
光源氏は一族に累が及ばぬよう、率先して都を離れ、須磨(現:兵庫県神戸市)の地に謹慎。愛妻同伴では反省の意思を示す説得力に欠けるため、とうぜん紫とは離れ離れに。
「どうかご無事で……」
悲しみに暮れる紫とは裏腹に、謹慎先でも明石の御方(あかしのおんかた)と懇ろになり、挙げ句は子供さえ作ってしまうのですから、光源氏ってのはつくづく懲りないヤツです。
その後、光源氏を失った京の都では不幸が相次いで混乱に陥ったため、その危急を救うべく華麗なカムバックを果たしました。
「もう二度と離れない……!」
須磨での浮気を咎めるよりも、再び会えたことの方がよほど嬉しい。波乱があってこそ盛り上がる二人の愛情はいよいよ深まり、これで今度こそハッピーエンド……と思いきや、作者はまだ試練を用意していたのです。
(※1)比翼の鳥:一羽の身体に雌雄の両頭がついた伝説上の鳥で、互いに助け合わねば飛べないことから「夫婦のあるべき姿」とされました。
(※2)連理の枝:二本の木がくっついて一本となった状態、あるいは一度分かれた枝が再びつながった状態。こちらも生涯添い遂げる夫婦の喩えとされています。
※参考文献:
鈴木日出男 編『源氏物語ハンドブック―『源氏物語』のすべてがわかる小事典』三省堂、1998年3月
池田亀鑑『源氏物語入門』社会思想社、2001年4月
林田孝和ら編『源氏物語事典』大和書房、2002年5月
山本淳子『平安人の心で「源氏物語」を読む』朝日新聞出版社、2014年6月