カネはあっても食べ物が…江戸時代の大飢饉は行きすぎたコメ経済がもたらした?
寛永、享保、天明、天保……歴史の授業で「江戸時代の四大飢饉」について学ばれたかと思いますが、とかく江戸時代は飢饉が多かったイメージを持っています。
一方、他の時代についてはあまり飢饉の言及がなされず、もしかして飢饉とは江戸時代にしか起こらなかったのかと錯覚してしまったのは、きっと少年時代の筆者だけではないでしょう。
言うまでもなく、他の時代にも飢饉は起きており、全国各地で甚大な被害をもたらしている(あまりの事態に改元された例もある)のですが、こと江戸時代の飢饉について強調されるのはなぜでしょうか。
その理由について調べてみると、江戸時代の経済事情に原因を求める一説に行き当たりました。
コメ経済発展の陰で、見過ごされた凶作リスク
よく「加賀百万石」などと言われるように、江戸時代はコメの収穫高で国力をはかり、武士の格式を定める石高(こくだか)制が採用されていました。
それまでコメが穫れない地域では米以外の手段(例:現地で採れたモノを売った銭など)で年貢を納めることも認められていたのですが、蝦夷地(現:北海道)などごく例外を除き、無理にでも石高が割り振られ、コメを作って納めるよう強制されます。
こうしてコメが経済の基準になると、コメの値段は高くなるため、農民たちは他の作物(雑穀など)を自分で育てるよりも、コメを作ってそれを高く売り、そのお金で安い雑穀を買って食べるようになりました。
要は世の中が平和になって物資の流通が安定した結果「おカネを出せば大抵のモノが買える」ようになっていったのです。
高く売れるコメを作って売り、そのカネで安い雑穀を買って食べる……実に合理的な生活サイクルですが、コメは天候不順(長雨や冷夏など)や病虫害に弱いため、ひとたび天変地異に見舞われると、たちまち破綻してしまうリスクを抱えていました。
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