これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【後編】
前編では頼朝の兄弟である義平から範頼まで紹介しました。
後編では、打倒平氏のため挙兵した頼朝たち兄と共に戦った弟たちを紹介します。
前回の記事
これが源氏武者の生き様だ。源頼朝の兄弟たちが迎えた悲運な最期【前編】
鎌倉幕府を開き、武家政権の樹立を果たした源氏武者、源頼朝。後世にまで影響を及ぼした偉大なる功績を頼朝は残したものの、落馬したことが原因で亡くなるという不慮の最後を迎えています。また、頼朝の8人…
七男・阿野全成
今若丸の幼名で呼ばれていた全成(ぜんじょう)は平治の乱の時に7歳だったため、醍醐寺へ出家させられます。この時に今若丸から全成と名を変えています。
全成は出家先の醍醐寺にちなんで醍醐禅師と呼ばれていました。また、荒くれ者だったこともあり、悪禅師とも呼ばれていました。
悪禅師の名称を物語るように、治承4年(1180)に以仁王が平氏打倒のため挙兵すると、全成もそれに呼応するように醍醐寺を抜け出し、修行僧に成りすまして東国へ向かいます。
同年に頼朝が石橋山の合戦で敗れた数ヵ月後、全成は佐々木定綱の力添えによって頼朝と対面を果たしました。全成と頼朝の合流は兄弟の中でも最初であったので、頼朝は泣いて喜びました。
また頼朝の信任も深かったようで、北条政子の妹である阿波局を妻に娶っています。
その頼朝が正治元年(1199)に亡くなると、全成は頼朝の孫である実朝を擁立する北条家と結び、頼家(頼朝の嫡男)たちと対立しました。
しかし全成は先手を打たれ、51歳を迎えた建仁3年(1203)に謀反人として頼家たちに捕らえられます。そして常陸国へ配流と同時に頼家の家臣、八田知家に謀殺されました。
全成は駿河国阿野荘を所有していたので、その縁から阿野の姓を使用していたと思われます。
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