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何で女性にその名前?生涯無敗を誇った剣豪美女・園部秀雄の武勇伝【上】

何で女性にその名前?生涯無敗を誇った剣豪美女・園部秀雄の武勇伝【上】

男に負けない実力を備え、師匠から「秀雄」の名を授かる

明治二十一1888年のある日、19歳となった「たりた」は、鑑柳斎に呼び出されました。

「『たりた』よ……そなたに、印可状(※免状の一種)と新しい名を授ける。これからは『秀雄』と名乗るがよい」

「ありがとうございます……しかし、秀雄とは男性の名ではありませんか?」

「いかにも。雄(おとこ)に秀でると書いて秀雄……そなたが男にも負けぬ実力を身に付けたことを証(あか)す名前じゃ。今後より一層精進せい」

「ありがとうございます!」

以来「たりた」は日下秀雄と称して撃剣興行に励みましたが、その美貌とのギャップもあって、一座の花形となったそうです。

そして明治二十四1891年、同じ一座の吉岡五三郎(よしおか ごさぶろう)と結婚。娘を出産するも、夫が早く亡くなってしまったため「幼な子を抱えて巡業は出来ない」と養女に出してしまいました。

現代人の感覚では「無責任極まる」と非難の一つも上がりそうなものですが、当時は現代と違って避妊もシングルマザー対策も不十分、そもそも自分ひとり食べていくのさえ厳しい時代でしたから、一概に秀雄ばかりを責められません。

夫と娘と別れた秀雄は、悲しみを振り切るかのように武者修行の旅に出て全国各地を飛び回り、「流儀、得物(武器)を問わず」挑戦者を募りました。

「おい、美人の武芸者が立ち合い募集だってよ!」

腕に覚えのある者はもちろんのこと、美女と聞いて下心むき出しの者まで雲霞の如く秀雄に群がったものの、誰一人として勝つことは出来なかったそうです。

さて、さんざん暴れ回って気が済んだのか、明治二十九1896年には帰ってきて直心影流薙刀術の宗家を継承。同年に直猶心流(ちょくゆうしんりゅう)鎖鎌術の宗家・園部正利(そのべ まさとし)と再婚、園部秀雄と名乗りました。

薙刀と鎖鎌という異色のカップルですが、もし「園部正利・秀雄」と表札をかけていたら、知らない人は夫婦で住んでいるとは思わないでしょうね。

帰ってきてからは撃剣興行よりフェイドアウトしていったようで、本所回向院での舞台を最後に、以降は大日本武徳会(だいにっぽんぶとくかい)での活躍がメインになります。

【続く】

※参考文献:
『歴史ミステリー 日本の武将・剣豪ツワモノ100選』ダイアプレス、2020年11月
『剣の達人111人データファイル』新人物往来社、2002年10月

 

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