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眼帯キャラは創作?戦国時代に「独眼竜」とは呼ばれていなかった伊達政宗

眼帯キャラは創作?戦国時代に「独眼竜」とは呼ばれていなかった伊達政宗

独眼竜の元祖は五代十国時代の英雄・李克用

また「独眼竜」という言葉自体は戦国時代以前からあったものの、それを政宗に当てはめたのは幕末期に活躍した儒学者・頼山陽(らい さんよう)と言われています。

横槊英風独此公
肉生髀裏斂軍鋒
中原若未収雲雨
河北渾帰独眼龍
※『山陽遺稿』収録「詠史絶句」天保十二1841年より。

【意訳】
槊(ほこ)を静かに横たえ、英雄のオーラを湛える彼は
内腿に贅肉をつける余裕で、戦を収めてしまった
もしも秀吉が天下を統一していなければ
東北地方(白河関=福島県の入り口より北)はすべて独眼竜(政宗)のものになっていただろう

これも「あと十年早く生まれていれば、政宗が天下を奪れたかも(少なくとも東北地方は統一できただろう)」というヨイショの一環ですが、「政宗=独眼竜」の結びつきについては、これが初出と言われています。

ちなみに元祖「独眼竜」は、五代十国時代(10世紀)に後唐(こうとう。古代中国大陸のテュルク系王朝)を興した隻眼の英雄・李克用(り こくよう)につけられた二つ名でした。

終わりに

以上、伊達政宗について「目玉は抉っていなかった」「眼帯はしていなかった」「生前『独眼竜』とは呼ばれていなかった」という話を紹介してきました。

しかし、これらのことをもって政宗の功績が損なわれることはいささかもありませんし、これからも東北の誇る偉人の一人として、これからも人々に慕われ、伝えられていくことでしょう。

※参考:
伊藤靄谿 註『頼山陽詩集 山陽詩鈔新釈・山陽遺稿詩注釈』書藝界、1985年
日本史の謎検証委員会 編『最新研究でここまでわかった 戦国時代 通説のウソ』彩図社、2018年11月

 

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