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「俺を総大将にしろ!」天下一の傾奇者?それともうつけ者?信長の甥・織田頼長の武勇伝【下】

「俺を総大将にしろ!」天下一の傾奇者?それともうつけ者?信長の甥・織田頼長の武勇伝【下】:3ページ目

茶人として生きた晩年

豊臣家の滅亡によって戦国乱世の終結(元和偃武)が宣言されると、孫十郎は助命される代わりに出家して道八(どうはち)と号し、父の創始した茶道の有楽流(うらくりゅう)を継承します。

「ま、俺だって信長の甥だから、茶の嗜みくらいはあるんだぜ」

しかし、積極的に徳川家へ敵対したことから味舌藩は継がせてもらえず、3万石の所領は1万石づつ四男の織田荘蔵長政(しょうぞう ながまさ。戒重藩)、五男の織田武蔵守尚長(むさしのかみ なおなが。柳本藩)に分け与えました。

残り1万石は父・長益が自分の隠居領としてキープし、元和三1617年に誕生した孫十郎の長男・三五郎(さんごろう。後の織田長好)の成長を待って相続させるつもりだったようです。

そんな中、若い頃の無茶がたたったのか元和六1620年9月20日、孫十郎は39歳の若さで人生に幕を下ろしました。もしかしたら、いい年になってもまだ傾奇者っぷりが改まらなかったので、粛清されてしまったのかも知れません。

偉大なる伯父・信長を超えようと葛藤し、「天下一の傾奇者」を目指したその最期が、少しでも心安らかであったことを願います。

エピローグ

とは言っても出来が悪い子供ほど可愛いのか、長益もショックを受けたようで、翌元和七1622年に息子の後を追って身罷ると、まだ6歳だった三五郎は正式な後継者として認められず、味舌藩は改易(所領を没収)されてしまいました。

6歳で放り出されてしまった三五郎は苦労の中で成長し、やがて元服して織田長好(ながよし)と改名。千姫(せんひめ。徳川家康の孫娘で、秀頼の元正室)の口添えによって3千石の合力米(ごうりきまい≒施し)を受けていたようです。

長好も祖父の有楽流を受け継いだものの、子供がないまま慶安四1651年5月20日に35歳で死去。有楽流茶道は長政らによって受け継がれ、今日に至っています。

【完】

※参考文献:
桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年1月
戦国人名辞典編集委員会 編『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年12月
家臣人名事典編纂委員会 編『三百藩家臣人名事典』新人物往来社、1987年11月

 

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