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「俺を総大将にしろ!」天下一の傾奇者?それともうつけ者?信長の甥・織田頼長の武勇伝【下】

「俺を総大将にしろ!」天下一の傾奇者?それともうつけ者?信長の甥・織田頼長の武勇伝【下】

「俺を総大将にしろ!」ワガママの通らなかった孫十郎は……

ともあれ始まった大阪城の攻防戦は一進一退を繰り返し、塙団右衛門直之(ばん だんゑもん なおゆき)の夜討ちや、真田丸(さなだまる)の出城で有名な真田信繁(さなだ のぶしげ。幸村)の活躍など、多くの武勇伝が生まれました。

孫十郎も友軍と共に二の丸・谷町口で藤堂和泉守高虎(とうどう いずみのかみ たかとら)の攻勢を防いでいましたが、今一つパッとしません。

「こっちから出撃したいのに、治郎兵衛や小左衛門が『自重しろ』と邪魔をする……やっぱり3トップ制だと士気が下がる。ここは一つ、俺が総大将として指揮とらないとダメだって事を思い知らせてやろう」

とでも考えたのか、孫十郎は病と称して陣中に引きこもるようになり、戦力が低下した谷町口は次第に劣勢となっていきました。

「おい、孫十郎!」「そなたは将としての自覚がないのか!」

「……何だよ、うるっせえな。病気だっつってんだろ」

そんな大将同士の不和が陣中に蔓延したのか、ある晩、けっこう派手な喧嘩騒ぎが発生。混乱に乗じて藤堂軍の夜襲を受け、甚大な被害を出してしまいます。

「だから言っただろうが、俺を総大将にしておけばよかったのに!」

「吐(ぬ)かせ!与えられた役目が不満で放棄するような奴に、重責を任せられるか!」

やがて父・長益らの努力もあって徳川方との和議が成立し、いわゆる「大阪冬の陣」が終結。まずは一安心ですが、孫十郎のワガママは止まりません。

「このまま徳川の好きにさせてなるものか!今度こそ俺が総大将で、いま一戦交えてやろうぜ!次は勝てる!」

孫十郎の大言壮語はさておき、豊臣方でも決戦を望む声が大きく、もはや抑えきれぬと諦めた長益は、諸将と喧嘩別れした孫十郎を連れて大阪城を退去

そして慶長二十1615年「大阪夏の陣」によって大阪城は陥落、豊臣家は滅亡したのでした。

3ページ目 茶人として生きた晩年

 

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