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人づくりこそ、国づくり…台湾の教育改革に命を奉げた六氏先生のエピソード

人づくりこそ、国づくり…台湾の教育改革に命を奉げた六氏先生のエピソード:3ページ目

匪賊の襲撃によって7名が犠牲に

8人の教育事業は順調に理解を獲得。9月には生徒も21人に増えたので、甲・乙・丙の3クラスに分けて授業を行うなど、小学校は賑やかになってきました。

そんな中、台湾に残留していた清国軍の残党や匪賊(抗日ゲリラ)を征伐中だった北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう。明治天皇の義叔父)が10月28日に陣中で薨去されたため、8人のうち伊沢と山田が親王の棺に随行、日本へ一時帰国します。

残った6名は変わらず授業を続けましたが、暮れごろになると台北の治安が悪化。匪賊らが「日本人の首に懸賞金をかける」と宣伝し、命を狙われるようになりました。

「どうか、日本へお逃げ下さい。あるいはせめて武器くらいはお持ち下さい」

必死に避難を勧める地域住民に対して、6名は毅然と答えます。

「身に寸鉄を帯びずして住民の群中に這入(はい)らねば、教育の仕事は出来ない。もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」

武装とは相手が襲ってくることを想定している≒信用していないからするものであり、命がけで「あなたを信用している」と言うメッセージを示さなければ、こちらの言うことなど心から聞いてはくれないでしょう。

たとえそれで殺されたとしても、台湾のみんなに「彼らは命がけで自分たちを信じようとした」という日本の精神を示すことが出来る……現代人の価値観からすれば賛否両論でしょうが、彼らは大真面目でそう語ります。

そして明治二十九1896年1月1日、彼ら(用務員の小林清吉を含めて7名)は匪賊100余名の襲撃を受け、懸命の説得も虚しく惨殺。その首級を奪われ(当時、台湾では首狩りの風習が一部に残っていました)、芝山巌学堂も散々に略奪されてしまったのでした。

エピローグ

この事件を重く見た日本政府は、「六氏先生」と呼ばれた犠牲者たちを丁重に弔うと共に台湾統治を強化。戻ってきた伊沢らによって芝山巌学堂も授業が再開され、徐々に近代教育が根づいていきます。

そんな努力の甲斐あって、日本が統治した約50年間で、台湾人の学齢児童就学率は0.5%から70%に増加(昭和十八1943年)、識字率も終戦時(昭和二十1945年)には92.5%にまで増加しました。

誰もが読み書きできることで豊かで公正な社会生活を求められ、望む者にはより高い教育も受けられる……後に経済発展を遂げた台湾国の基礎は、六氏先生をはじめとする先人たちの勇気と情熱によって築き上げられたのです。

「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」

【意訳】死ぬことを差し引いてもなお余りある光栄であり、これこそ実に有意義な命の使いどころだ

六氏先生の墓は日本の敗戦・撤退後、大陸から台湾へ逃げ込んできた蒋介石(しょう かいせき)率いる国民党(こくみんとう)政権によって破壊されたものの、李登輝政権の台湾民主化に伴って再建されました(平成七1995年)。

現代でも多くの台湾人に慕われながら、六氏先生は台湾国の行く末を見守っています。

※参考文献:
篠原正巳『芝山巌事件の真相』和鳴会、2001年6月
小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』小学館、2008年11月

 

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