引き裂かれた姉弟愛…。飛鳥時代に生きた姉・大伯皇女と弟・大津皇子の悲劇 【その1】:2ページ目
詩歌などの文芸は大津皇子をはじまりとする
『日本書紀』には、「詩賦(しふ)の興り、大津より始まれり」と書かれています。それほど、大津皇子は、漢詩や和歌の才能に恵まれていたとされます。
「経もなく 緯も定めず 未通女ら 織れる黄葉に 霜なふりそね」(万葉集 巻8 1512)
(訳:どれを縦糸とも横糸とも定めずに、少女が織りあげた黄葉に、どうぞ霜よ降らないで)
大津皇子が詠んだとされる一首です。
秋に色付く美しい黄葉を、仙女が織り上げた錦と見立て、「霜が積もることにより黄葉が枯れてしまわないように」との願いが込めているのでしょう。
ところが、この和歌には大津皇子の心情がよく表れているように思われるのです。
縦糸と横糸を人の織り成す絆と考えてみましょう。「私の周りの人々の絆でつむられた世界が崩れてしまいませんように」との意味にも取れます。
この歌を詠んだ当時、大津皇子を取り巻く人間関係に、なんらかの問題が生じていたのでしょうか?
血筋の良さと優秀がゆえに謀反の罪をきせられた?
大津皇子の母は、天智天皇の娘です。それゆえに血筋の良さは天武天皇の皇子達の中でも群を抜いていました。
大津皇子に匹敵する血筋を持つのが、天武天皇の正妻である鵜野皇后(後の持統天皇)が生んだ草壁皇子(くさかべのみこ)です。
草壁皇子は、大津皇子より1年前に生まれたとされ、天武天皇の皇位継承者No.1の皇太子の地位にありました。鵜野皇后は草壁を溺愛、継母であり叔母でもありながら、そのライバルである大津に警戒心を抱いていたとされます。
天武天皇が亡くなった直後に、鵜野皇后が大津皇子に謀反の罪をなすりつけ抹殺したというのが一般に唱えられている説です。