戦国時代、加藤清正を追い詰めた男装の女武者・お京の方の武勇伝【ニ】:2ページ目
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決起に逸るばかりが勇気ではない……肥後国衆一揆への加勢を断る
しかし、後世「肥後国衆一揆(ひごのくにしゅういっき)」と伝えられた一大叛乱に、正親たちは与(くみ)しなかったようです。
「……刑部らに勝ち目はなか」
肥後の国衆は古来「お山の大将」気質が強く、誰かの下について協力することを極端に嫌う独立自尊の気質。後に「薩摩の大提灯、肥後の腰提灯」などと呼ばれるように、一つの大きな提灯でみんなを照らすより、各自で提灯を身に着けて気ままに行動したがるのでした。
一致団結して九州随一の精強さを誇った薩摩の島津氏ですら屈伏を強いられた豊臣の軍勢に、てんでんばらばらの肥後国衆が勝てる見込みはありません。
「何を女々しかことを!男なら、勝つ負けるよりも大切な事があろう!」
血気盛んな「肥後もっこす(※当時こう呼んでいたかは未詳)」たちが次々と一揆に加勢していく中で、留まることを決断した正親の葛藤は、並大抵ではなかった筈です。
「お京……」
みんなが立ち去った後から、お京の方が入って来ます。
「……はい。血気に逸るばかりが勇気ではなく、家中や領民を安んずることもまた、惣領の務めにございますれば……」
「そなたにそう言って貰えると……少しは気が晴れる」
「あなた様のご決断は正しゅうございますし、また正しくなるよう、私どももお支えして参りまする」
果たして一揆は5か月後の12月に鎮圧され、首謀者らはその多くが処断されましたが、剛勇で知られた正親にとっては、居ても立っても居られない日々だったことでしょう。
※参考文献:
国史研究会 編『国史叢書. 將軍記二 續撰清正記』国史研究会、1916年
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』吉川弘文館、2005年
松田唯雄『天草温故』日本談義社、1956年
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