踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【上】:2ページ目
京都で君命に奔走した修理、長崎で世界に開眼するも……
さて、国許で夫と父の身を案じる雪子を想いながら、修理は君命を奉じて国家のために奔走します。
京都の洛中洛外を視察して治安維持に努め、朝廷との折衝に当たるなど、多忙な日々を送る中で、やがて会津藩お預かりとなった壬生浪士組(みぶ ろうしぐみ。後の新選組)とも連携・交流したようです。
元治元1864年7月19日「禁門の変(長州藩によるクーデター)」では義父や父と共に天王山に立て籠もった真木和泉守保臣(まき いずみのかみ やすおみ)らを討伐。薩摩藩の支援もあって、長州藩の撃退に成功しました。
実戦を経験したことで、容保は軍制を近代化する必要を実感。慶応二1866年には修理を長崎に派遣し、西洋式の軍制や教練を視察させます。この時に学んだノウハウを元に編成された部隊の一つが、後に悲劇を生んだ白虎隊でした。
その後も主君からの信頼篤く、忠勤に励んだ修理でしたが、世に討幕の機運が高まっていった慶応三1867年10月、第15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は討幕派との戦争を回避するべく、朝廷に政権を返上します。
これが世に言う「大政奉還(たいせいほうかん)」ですが、あくまで「徳川討つべし」という主張はやまず、これを受けて会津藩でもこのまま妥協を続けるか、それとも一戦交えるか、意見が分かれました。
「修理よ、そなたの意見も聞きたきゆえ、急ぎ上洛せよ」
急ぎ長崎から京都へ呼び戻された修理は、これまで自分が見聞きした限りを話した上で、意見を具申します。
「今は幕府だ朝廷だと争っている場合ではございませぬ。日本国が一丸となって力を蓄え、欧米列強に伍する旨を説くべきと存じまする」
会津藩の多くが主戦論を叫んでいる中、長崎での滞在を通じて世界情勢を見据えた修理の意見は空気を読まない以外の何物でもなく、かつて修理に並ぶ俊才と称された若きホープ・佐川官兵衛直清(さがわ かんべゑただきよ)と真っ向から対立します。
「修理よ、そなたはむざむざ怨敵に膝を屈せよと申すか!長崎で毛唐(けとう。主に白人)どもに何を吹き込まれた!」
修理と官兵衛が丁々発止の激論を繰り広げる中、会津の世論は徹底抗戦に固まっていき、幕府もまた、戦争に追い込まれていったのでした。
【続く】
※参考文献:
阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち』歴史春秋社、2010年1月
中村彰彦『幕末会津の女たち、男たち 山本八重よ銃をとれ』文藝春秋、2012年11月
宮崎十三八・安岡昭男『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年1月