徳川家康は何故、隠居後に江戸を離れ、「駿府」を最期の地として選んだのか?:2ページ目
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鎌倉はかつて、源頼朝に一大武士団が築かれた地。家康は幼いころから『吾妻鏡』を愛読し、頼朝を信奉していたと伝えられています。当然、鎌倉のこともよく知っていたと考えられます。
鎌倉は背後を深い山に囲まれ、攻撃をしかけるのが困難です。また、正面には遠浅の由比ヶ浜に囲まれています。遠浅の砂浜は座礁を恐れた船団を近寄らせず、沖から船から降りた兵士を矢で狙い撃ちし放題です。仮に陸までたどり着いたとしても、海水で濡れた甲冑は重く、先頭には圧倒的に不利になります。このように、鎌倉の地はまさに天然の要塞でした。
実は駿府の地形はこの鎌倉の地とよく似たつくりをしていました。北に赤石山脈が連なり、西に大井川、東に富士川がそれぞれ水をたたえています。また、南には太平洋が広がっています。まさに家康は人質時代の思い出に耽溺するだけではなく、この地の利を知っていたからこそ、この地を隠居場として選んだのだでしょう。
家康が駿府を選んだ理由としては他にも、「大名や使節が拝謁に便利だったから」「避寒の地だったから」など複数挙げられており、それら複合的な要因から、家康が余生を過ごす場所として選ばれたのかもしれません。
参考
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