泣く子も黙る「民権ばあさん」!日本初の女性参政権を実現した民権家・楠瀬喜多:2ページ目
泣く子も黙る「民権ばあさん」かく語りき
……しかし、その喜びも長くは続かず、明治十七1884年に区町村会法が改正。選挙規則の制定権を再び国家に取り上げられた事によって、女性参政権は廃止されてしまいます。
もしかしたら、喜多らの運動によって各地で広まりつつある女性参政権を、政府が危惧したのかも知れません。
古来、女性に参政権を認めない理由として「夫婦で意見が割れると家庭で不和の原因となるから」「女性は理論や公益より、感情や私欲を優先する傾向が強いから」などと言われて来ましたが、それは正しいと言えるのでしょうか。
家庭には夫婦だけでなく成人した息子や隠居した男性がいることもありますし、彼らと意見が割れれば、議論が過熱して不和の原因となること可能性は十分に考えられます。
そして、理論や公益よりも感情や私欲を優先する方は、残念ながら男女に関係なく存在することを皆さんもよくご存じでしょう。
こうした偏見が改められるにはまだまだ永い歳月を要することとなりますが、ともあれ喜多は自由民権運動に参加。板垣退助(いたがき たいすけ)らの結成した立志社(りっししゃ)の論客として阿波(現:徳島県)・讃岐(現:香川県)など四国各地を遊説します。
その演説の勇ましさは男性にも劣らないもので、警官の「弁士中止!(※)」にも怯むことなく抗論し、人々の民権意識を大いに昂揚せしめたそうです。
(※)当時、政治系の演説会は必ず警官が監視しており、当局にとって不都合な発言があった場合など、その中止を命じる権限を持っていました。
また、自身が活動するだけではなく、若き日の河野広中(こうの ひろなか。衆議院議長)や頭山満(とうやま みつる。アジア主義運動家)など多くの民権家を世話する様子が肝っ玉母ちゃんみたいで、いつしか「民権ばあさん」とリスペクトされたのでした。
そんな喜多は晩年まで精力的に活動、やがて大正デモクラシーの機運が高まる中、大正九1920年10月18日、85歳の生涯に幕を下ろしました。
墓所は筆山(現:高知県高知市)のふもとにあり、夫の楠瀬実に寄り添うように建てられています。施主はかつて世話になった頭山満。彼女の志は、若き志士たちへと受け継がれていったのでした。
「性別や身分にとらわれず、誰もが国家の当事者として政治に参加できる権利」
現代では当たり前に与えられている参政権ですが、その獲得には長い道のりがあったことに思いを馳せ、政治参加への意欲を高めることが、喜多たちに対する何よりの手向けとなるでしょう。
※参考文献:
日外アソシエーツ『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年10月1日
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 第三部 明治日本を作った男達』小学館、2017年10月27日