信長だけが織田じゃない!マイナー織田家に仕えて信長に対抗した戦国武将・角田新五【下】:3ページ目
最早これまで!稲生の決戦で壮絶な最期
その後も信勝は織田の家督を狙って信長との対立は激化の一途をたどり、ついに弘治二1556年8月24日、稲生(いのう。現:愛知県名古屋市西区)の地で決戦の火蓋が切って落とされました。
「者ども!敵(信長軍)は寡勢ぞ、恐るに足らぬ……かかれーっ!」
「「「おおぅ……っ!」」」
信勝の軍勢1,700に対して、信長の軍勢は700足らず、倍以上の兵力差に勝負は一瞬かと思われましたが、信勝方の一翼を担っていた林美作守通具(はやし みまさかのかみみちとも)が信長の手で討ち取られると、陣形が破綻の兆しを見せます。
「こらっ……退くな!怯むな!」
また、もう一翼を担っていた信勝の猛将・柴田権六郎勝家(しばた ごんろくろうかついえ)は予め信長と内通しており、これによって味方は崩壊してしまいました。
「最早これまで……かくなる上は名をこそ惜しむ……一人でも多く冥途の道連れじゃ!」
たとえ逃げて、この場を生き延びたところで、武士としての生き場所はない……そう覚悟した新五は果敢に突撃。信長方の松倉亀介(まつくら かめのすけ)に討ち取られてしまったそうです。
かくして、後世に言う「稲生(稲生原)の合戦」は信長の完全勝利に終わり、降伏した信勝は生母・土田御前(どたごぜん)の助命歎願によって処刑を免れたものの、再び謀叛を企んだため、翌弘治三1557年11月2日に暗殺されてしまいました。
これによって信長の家督継承は盤石なものとなり、やがて尾張国を統一し、天下布武への表舞台へと踊り出していくのですが、そのエピソードについては、又の機会に。
【完】
※参考文献:
和田裕弘『信長公記―戦国覇者の一級史料』中公新書、2018年
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、2010年