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実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【五】

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禁門の変で魅せた!芹沢鴨「男の花道」

そんな調子で信用ガタ落ちの壬生浪士組でしたが、文久三1863年8月18日に起きた長州藩のクーデター「禁門(蛤御門)の変」には会津藩のお手伝い(義勇軍)として御所内の警備を命ぜられます。

……が、配置されたのは戦線からずっと後方で、手柄を立てる機会(と言うより警備する必要)はなさそうでした。会津藩からあまり信用されていなかった事が察せられます。

しかも連絡が遅れたため、御所に駆けつけた時には御所の門がすっかり封鎖されており、警備する会津藩兵たちにも連絡が行っていなかったようです。

「何者だ!……壬生浪士組?そんな話は聞いておらぬ!帰れ帰れ!」

どんなに事情を説明しても、中に入れて貰えず、仕方がないから帰ろうか……と、近藤や土方が諦めかけたその時です。

「我らは会津藩お預かり、壬生浪士組……通しな」

悠然と現れた芹沢鴨は、鉄扇一つでビッシリと突きつけられた槍を払い退け、ゆっくりと進んで行きました。常人であればすぐに槍衾(やりぶすま)でしょうが、ここに芹沢のカリスマ性が窺われます。

「おぉ……やっぱり芹沢先生は只者じゃねぇ……野郎ども、先生に続け!」

「「「おう!」」」

意気揚々と新見錦、平間重助、平山五郎ら水戸派が続き、その後から試衛館派が追従。御所に入れた壬生浪士組は、ぶじ配置につくことが出来たそうです(……が、配置が配置だけに、そこまで長州藩が攻めて来ることはなく、手柄は立てられませんでした)。

「恐るべし、芹沢鴨」……禁門の変で存在感を発揮したことから、松平容保は壬生浪士組に「新選組(しんせんぐみ。新撰組)」の名を与えます。

芹沢は言わば「新選組の父」とも言えそうですが、もしかしたら容保が近藤に対して「メンバーを新しく選び直せ(≒芹沢一派を粛清しろ)」というメッセージを送っていたのかも知れません。

【続く】

※参考文献:
永倉新八『新撰組顛末記』新人物往来社、2009年
箱根紀千也『新選組 水府派の史実捜査―芹澤鴨・新見錦・平間重助』ブイツーソリューション、2016年
流泉小史『新選組剣豪秘話』新人物往来社、1973年

 

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