刺客となった悲劇の皇后!日本神話のヒロイン・狭穂姫命と兄の禁断の関係【下】:3ページ目
エピローグ
その後、垂仁天皇は狭穂姫命の遺言通りに兄比売たちを迎えます。兄比売は皇后となって日葉酢媛命(ひばすひめのみこと※4)と称せられ、第12代・景行天皇(けいこうてんのう)や、伊勢の地に神宮を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、多くの子を授かりました。
また、狭穂姫命の忘れ形見となった誉津別命はこれも印象的なエピソードを残していますが、その詳細は別稿に委ねます。
垂仁天皇は「仁を垂れる」という諡(おくりな。死後に贈られる称号)の通り、末永く仁政を敷いて人々に称えられましたが、その御心の片隅には、ずっと狭穂姫命が生き続けていたことでしょう。
【完】
(※1)現代の東京都稲城市ではなく、稲で築いた城とされる。
(※2)いってんばんじょう。一つの天を治め、一万乗の戦車(=大軍)を率いる者=天皇陛下の意。
(※3)『日本書紀』での表記。『古事記』では本牟都和気命。
(※4)『日本書紀』での表記。『古事記』では氷羽州比売命。
※参考文献:
福永武彦 編『現代語訳 古事記』河出文庫、2003年8月5日