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ひたすら衆生を救う一心で。急峻さで知られる槍ヶ岳を開山した江戸時代の僧・播隆上人とは?

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祟りだ!となじられて

その後1833年から1835年にかけ三回登りますが、すべて順調ではありませんでした。数々の凍傷で足の指を失います。

また播隆は浄土宗でしたが、檀家制度によりこの一帯を治める禅宗の僧侶達の妨害にもあいました。おりしも天保の大飢饉が起き、これに乗じて「播隆が山を荒らした罪で飢饉がおきた」と流布されて、それを信じた村人達から石を投げられるなどの苦しみも味わいました。

また、播隆の悲願は後続の参詣者の安全のために槍ヶ岳の岩壁に鉄の鎖を懸けることで、熱心な信者達により当時貴重だったはさみ・包丁・鎌などの鉄が寄進され鎖は完成しましたが、凶作により松本藩に禁止されたことがありました。

飛騨地方の村々にはなぜか「鉄を持って山を越えると祟りが起きる」という迷信があり、鉄を集めまわる播隆一党を快く思わない風潮もあっての配慮でした。

そのため実現には4年を待たなければならず、玄向寺で病気療養中の播隆に代わり、又重郎ら信者達が鎖をかけました。天保11年(1840)のことでした。播隆は同じ年、病気が悪化し、ことを見届け終わったかのように中山道太田宿にて往生しました。55歳のことでした。

筆者も槍ヶ岳へ登りましたが、クライマー経験者でなければ、鎖がなければ危険で進めなかったと思います。また現在も播隆らが身を休め念仏を唱えた「播隆窟」が登山ルートに現存し、一休みする場所となっています。

数々の伝説

弘法大師などの有名人にはその霊力で人を助ける逸話が多く残りますが、播隆も同じで、

・信者を連れて「播隆窟」で休み、一時外出したところ熊が入り込んでいた。その熊を諭して穴から出て行ってもらった
・猿が集まって説法を聞いて涙し、念仏踊りを踊った
・誰も知らないはずなのに、播隆が手を合わせた家に死人があった
・錆で困っていた古井戸に名号を書いた石を投げ入れると清らかになった

などなどたくさんの伝説が残されています。

播隆は今から約160年前に槍ヶ岳を開山しました。一般的には「日本近代登山の父」と呼ばれている英国人ウェストンのほうが知られているかもしれませんが、彼より65年も前に、己の名声ではなくひたすら衆生救済のために生きた播隆。いまJR松本駅前には上人のブロンズ像か設置されています。

参考文献:『槍ヶ岳開山 播隆』穂苅三寿雄・穂苅貞雄

 

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