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絶世の美男子…戦国時代が生んだ悲運の若武者・木村重成を襲った数々の悲劇

絶世の美男子…戦国時代が生んだ悲運の若武者・木村重成を襲った数々の悲劇:2ページ目

妻と半年も経たずに別れを告げる…

慶長19年(1614)の方広寺鐘銘事件により豊臣家と徳川家の関係が険悪になり、同年に大坂冬の陣が勃発すると重成は今福の戦いで援軍として参陣します。

この戦が重成にとっては初陣となりますが、それでも臆することなく兵を指揮し、佐竹義宣の家臣・渋江政光(しぶえ-まさみつ)を討ち取ります。

初陣にして武将を討ち取る戦果を挙げた重成は「豊臣家に木村重成あり」と言わんばかりに全国に名を知らしめました。

そして和議が結ばれ、大阪冬の陣が終息すると重成は慶長20年(1615)1月に正室を迎えます。相手は大蔵局の姪である青柳で偶然見た重成にひとめぼれしたが故に、このような流れとなりました。

しかし、来たる大坂夏の陣で死を覚悟していた重成は同年5月に青柳と別れの盃を交わし、青柳と今生の別れをしました。

若くして討ち死に…

慶長20年(1615)に大坂夏の陣が起こると重成は八尾・若江の戦いに出陣します。そして、奮戦空しく井伊直孝の家臣によって討ち取られ、20代前半の若さで人生の幕を閉じることになります。

重成の死から200年経った文政11年(1828)になると、重成の墓所参拝がブームとなりました。悲劇的な人生を歩んだ重成に共感したかどうか定かではありませんが、人々は重成のことを「残念様」と呼んで親しみました。

最後に

重成の人生を見ているとまさに佳人薄命と呼びたくなります。生まれた時代がもう少し早かったら、長生きしていたかもしれません。

豊臣家が滅びる戦で死を覚悟してまで豊臣に忠義を示した重成は若いながら忠臣だったと考えてしまいます。

参考:永岡慶之助『大坂の陣・人物列伝「後藤基次・木村重成」』 (歴史群像デジタルアーカイブス) 

 

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