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渋すぎる!平隊士の身分を貫いた新選組の“仕事人”蟻通勘吾の美学【下】

渋すぎる!平隊士の身分を貫いた新選組の“仕事人”蟻通勘吾の美学【下】

蟻通勘吾は「二度死ぬ」、最期まで闘い抜いた不屈の闘志

……くたばるようなタマではありませんでした。

「もうどう見ても絶対死ぬでしょコレ」と言うことで「討死」とされた勘吾は、不屈の闘志で重傷を治してしまいます。

新政府軍の追及をやり過ごし、身体が動けるまでに快復した勘吾は大急ぎで北上した土方歳三らに追いつき、10月12日に仙台折浜(現:宮城県石巻市)から出航。新国家を樹立する旧幕府軍の野望を果たすため、蝦夷地(現:北海道)へと渡ったのでした。

しかし箱館(現:北海道函館市)に着くと、ずっと一緒に闘ってきた八十八が別れを告げます。

その理由は京都に残してきた恋人(屯所の近くにあった水茶屋『やまと屋』の娘?)に未練があったとも言われますが、もしかしたら戦争の行く末を悟った土方歳三が、家族や想い人がいる者に対しては、離脱するよう説得したのかも知れません。

「……左様か……名残惜しいが致し方あるまい……達者でな……」

特に身寄りもおらず、また剣術を棄てて生きる術も見当がつかない勘吾は、ここ箱館を死に場所と心得て最期まで闘うことになります。

かくして明治二1869年5月11日、箱館山で新政府軍の総攻撃を防ぎきれず、勘吾は討死したのでした。享年31歳。

勘吾の討死から一週間後の5月18日、箱館政権の総裁・榎本武揚(えのもと たけあき)らが降伏。新選組と共に戊辰戦争は終焉を迎えたのでした。

勘吾たちの墓所は大円寺(現:北海道函館市)にあるそうで、かつて敵味方に分かれて戦った多くの志士たちが、北の大地から日本の行く末を見守っています。

【完】

※参考文献:
永倉新八『浪士文久報告記事』新人物文庫、2013年9月6日
永倉新八『新選組顛末記』新人物文庫、2009年5月1日
好川之範 『箱館戦争全史』新人物往来社、2009年1月1日

 

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