桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【三】:3ページ目
本能寺の変・二条御所で討死
そんな新左衛門ですが、天正十1582年に信長が上洛すると、その嫡男・織田信忠(のぶただ)の側近として仕えます。
同年6月2日に起きた「本能寺の変」では二条御所(二条城)にいた信忠を逃がすべく、同僚の福富平左衛門秀勝(ふくずみ へいざゑもんひでかつ)や菅谷九郎右衛門長頼(すがや くろうゑもんながより)、そして服部小平太の弟・小藤太(ことうた)らと共に説得します。
しかし信忠はあくまでも「もはやこれまで。明智方に捕らわれて生き恥を晒すよりは、今この場で腹を切る」と聞かず、押し問答をしている内、明智軍に包囲されて脱出の機を逸してしまいました。
「……かくなる上は少しでも時を稼ぎ、若君の最期をけがさぬようお守り致そう」
「「「おう!」」」
かくして新左衛門らは奮闘の末に討死、信忠が自害するまでの時を稼ぎましたが、義元に食いちぎられた手指がこれほど惜しく感じられたことはなかったことでしょう。
享年は推定40歳前後、子供については記録がなく、新左衛門の嫡流はここに絶えてしまったものと考えられます。
終わりに
以上、服部小平太と毛利新介の生涯を追って来ました。
桶狭間を境に出世競争でやや後れをとったものの、生き永らえて城持ち大名にまでなった小平太と、逆に順調な出世を遂げたものの本能寺の変であえなく散った新介(新左衛門)。
大器晩成の小平太と栴檀双葉(※)の新介……対照的な人生を送り、末路もそれぞれ大きく違った二人ですが、桶狭間で共に助け合い、死力を尽くして「海道一の弓取り」今川義元を倒したことは、かけがえのない絆となったに違いありません。
「今川義元を討ち取った」ハイライトで知られる彼らですが、こうした一発屋(それ以外に活躍がない)みたいに思われがちな人々の生涯にも興味を寄せて貰えたら、彼らもあの世で喜んでくれることでしょう。
(※)せんだんふたば。栴檀(せんだん)という香木は、双葉の芽が出た時点から既にかぐわしいことから、若くして才能を顕わし、出世する譬え。
【完】
※参考文献:
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』 吉川弘文館、2010年10月27日
橋場日月『歴史群像 織田信長と戦国時代 信長が寵愛した八人の側近たち』学研、2014年11月