桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【三】:2ページ目
秘書的存在として信長をサポート
とは言え「海道一の弓取り」と称された大大名・今川義元を撃破したことで、信長の前途が開けためでたい逆転勝利ですから、織田家中はしばし祝賀ムードに酔ったようです。
新介は武功によって左衛門尉(さゑもんのじょう)の位を与えられたため、通称を新介から新左衛門(しんざゑもん)に改め、また諱(いみな。本名)もそれまでの秀高から良勝(よしかつ)に改めました。
その後、永禄十1567年に馬廻の中でも特に選りすぐりの「母衣衆(ほろしゅう)」が創設されると新左衛門も黒母衣衆(2チーム制で、黒母衣衆と赤母衣衆が存在)に抜擢され、陰に陽に信長のそば近くに仕えます。
この辺りから、かつて共に義元を倒した小平太と出世ペースに差が生じてきますが、新左衛門も手指を食いちぎられているため、武芸においては黒母衣衆の中で同輩たちに引けをとったようで、以降は秘書的な役割が多くなります。
永禄十二1569年の大河内城(現:三重県松阪市。北畠氏の居城)攻めや天正十1582年の甲州征伐では尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)として信長に随従、身辺整理や文書管理などを務めました。あるいは小姓時代と変わらず、夜伽も命じられたかも知れません。