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日本の豊かな海の恩恵は漂流のおかげ!?江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【完】

日本の豊かな海の恩恵は漂流のおかげ!?江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【完】:3ページ目

エピローグ

さて、幕府は延宝三1675年4月に島谷市左衛門(しまや いちざゑもん)を長とする調査団32名を派遣。調査船・富国寿丸に乗り組み、長右衛門らが流れ着いた島々を探索したところ、果たしてその証言通りに発見できました。

上陸した市左衛門らが現地を調査すると、かつて長右衛門らが暮らした住居の跡や勘左衛門の墓をはじめ、地形なども次々と符合します。

その後、島々の地図や海図の作成、測量などを実施した後に祠を祀り(御祭神は不明)、これらの島々が日本国領土である旨を示した石碑を建立。日本国の地図に「無人島(ぶにんじま)」と書き加えられました。

後にこの島々を巡って小笠原貞頼の子孫を自称する浪人・小笠原貞任(おがさわら さだとう)が訴えを起こして世間の注目を集めたため、島々は「小笠原諸島」と呼ばれるようになりましたが、長右衛門たちがもっとPR出来ていたら、ひょっとすると「長右衛門諸島」「勘左衛門諸島」などと呼ばれていたかも知れませんね。

ともあれこうした調査事業は、幕末期に日・米・英の間で起こった小笠原諸島と領有権争いに際して幕府=日本が小笠原諸島を実効支配していた事実の有力な根拠となり、小笠原諸島は無事に日本国の領土として国際的に承認されたのでした。

現代、小笠原諸島の存在によって確保されている排他的経済水域は日本全体でも大きなウェイトを占めており、この豊かな海の恩恵は、長右衛門たちの漂流事件がきっかけでもたらされたものと言えるでしょう。

【完】

※参考文献:

田中弘之『幕末の小笠原―欧米の捕鯨船で栄えた緑の島』中公新書、1997年10月

 

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