日本の豊かな海の恩恵は漂流のおかげ!?江戸時代のみかん商人・長右衛門の小笠原漂流記【完】:2ページ目
長右衛門・その後
「……ふむふむ……その方らも大層苦労したようじゃの……」
下田奉行所で証言をまとめた今村伝四郎正長(いまむら でんしろうまさなが)は、長右衛門らの苦労を労いました。
「まさか八丈島より南の海に、左様な島があったとはのぅ……かつて噂に聞いたことはあったが……そうか、実在しておったのか……」
伝承によれば戦国末期、信州の武将・小笠原貞頼(おがさわら さだより)が徳川家康公より領地を与える代わりに南海探検の許可をもらって島々を見つけたと言いますが、確かな記録や証拠は残されていなかったのです。
そのため、長右衛門らは「初めて小笠原諸島に上陸した日本人」として公式に記録されることになりました。
「そうと分かれば御公儀(幕府)には現地を御検分頂き、是非ともお役立て頂きたいものじゃ」
正長はさっそく長右衛門らより詳細に聞き取った島々の調書を江戸に送りましたが、幕府が調査に乗り出したのはそれから5年が経った延宝三1675年。現代以上にゆったりとした「お役所仕事」ぶりが感じられます。
それはそうと、江戸の街では今回の漂流記が話題となり、一躍時の人となった(であろう)長右衛門ら6名ですが、奉行所での取り調べ以降、これと言った記録が残されていません。
恐らく、今回の遭難で受けた損失が大きすぎて商売が傾いてしまったのでしょう。これだけ強烈なエピソードがありながら、屋号さえ記録に残されていないのは、そのためとも考えられます。
現代なら講演依頼や体験記の出版など、ビジネスチャンスを広げる機会もあったでしょうが、自己PRにはとんと疎かったのか、やがて長右衛門たちは世に知られることなく、静かに世を去ったのでした。