すぐ先延ばししちゃう人必見!徳川家康のブレーン「林羅山」のごもっともな教訓に耳が痛い…:3ページ目
儒学者として大成するも……
さて、羅山の期待に応えて勉学に励んだ得庵は、後に羅山と共に京都の儒家・藤原惺窩(ふじわらの せいか)の門下で頭角を現し、世の人々から「惺窩門四天王」に数えられるほどの博識を評されました。
※四天王のメンバーは林羅山・堀杏庵(ほり きょうあん)・那波活所(なば かっしょ)・松永尺五(まつなが しゃくご)とも言われ、得庵はこの松永尺五とポジション的に互角だったようです。
ところで呼び名の「菅得庵」ですが、当時の儒学者界では名前を中国風にすることが流行っており、元の名字である菅原を略して菅と名乗りました。また、成人男子が本名(諱・忌み名)の代わりに名乗る字(あざな)も子徳(しとく)と称し、こちらも中国風にしています。
そんな得庵ですが、歳を重ねるにつれ謙虚さを忘れてしまったようで、48歳を迎えた寛永五1628年6月14日。自分の弟子である安田安昌(やすだ やすまさorあんしょう)に斬り殺されてしまいました。
得庵は己が才智をひけらかして人を馬鹿にし、弱い者を虐めるところがあったようで、その怨みによる犯行と見られています。
得庵の追悼文を記した羅山は、まだまだこれから開花したであろう才智を惜しみ、また、かつて学問を志して自分を訪ねて来た純真な少年時代を懐かしみ、涙したことでしょう。
「志した時が始めどき」
「成功して驕らず(失敗して腐らず)」
そんな教訓を、得庵の人生から学ばされます。
※参考文献:
『講談社の絵本 竹取物語 かぐや姫』大日本雄弁会講談社、昭和十四1939年3月5日
『朝日 日本歴史人物事典』朝日新聞社、平成六1994年11月