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そうだったの!?日本のキャラメルはかつて ”禁煙用のお菓子” として販売されていた

そうだったの!?日本のキャラメルはかつて ”禁煙用のお菓子” として販売されていた:2ページ目

その次に手がけたのがキャラメルでした。ところが販売当時はなかなか普及せず、厳しい経営が続いていました。そんな様子が一転する出来事が起こります。

それは1914(大正3)年の大正博覧会でのこと。同会での土産用にキャラメルを販売したところ、これが大うけ。4月23日には、「禁煙を欲せらるる紳士淑女の為に特製ポケット用」というキャッチフレーズで新聞広告に掲載し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。同年7月10日の広告では、「煙草代用」のスローガンが起用されました。

このことからも当時のキャラメルは、「大人用のお菓子」として、販売されていたことがわかります。

その後も次々にヒット商品を送り出し、森永の主力商品となったキャラメルはその後、海外への主力輸出商品にまで成長しました。

こうして、2坪から始めた「森永西洋菓子製造所」は、大正9(1920)年には従業員が1300人を超え、その翌年には当時「東洋一のオフィスビル」と称された丸の内へ本社機能を移転。森永は名実ともに「東洋の製菓王」と呼ばれるようになります。

大正12(1923)、関東大震災が起きると、クリスチャンでもあった太一郎は、いち早く被災者救援活動に乗り出し、ビスケット6万袋、ミルクキャラメル10万箱を日比谷公園などへ運び込んで配布したり、乳幼児を抱える母親に対してはドライミルクを徹夜で配ったりするなど、支援活動に力を注ぎました。

昭和12(1937)年、日本の洋菓子会の発展と人々のために献身的に尽くした太一郎は71歳で死去しますが、その際、息子に語ったとされる最後の言葉も「困っているひとがいたら助けてあげなさい」だったといいます。

参考:菓商―小説 森永太一郎 』(若山三郎 徳間文庫 1997)

 

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