諦めない不屈の闘志!戦国一の名誉挽回をし藩主にまで上り詰めた武将・仙石秀久の生き様!:2ページ目
それから秀久は淡路で賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側についた長曾我部元親の足止めや淡路の防衛をした功績で天正11年(1583)に淡路国5万石の大名として出世し、天正13年(1585)には四国攻めの功績で讃岐国を貰っています。
ここまで順調に出世していった秀久に大きな悲劇が舞い込んできます…
私はここで失敗しました…
天正14年(1586)、秀吉による九州攻めで秀久は先陣である四国勢の軍監(武将たちの戦働きを見る監督役)として九州に上陸します。
九州では秀吉に救援を求めた大友宗麟率いる2万の軍がいましたが戦意喪失していました。
そして、秀吉率いる豊臣本軍中々来ないことと島津氏の攻勢も相まって焦りを感じた秀久は秀吉からの待機命令を無視して仙石・四国勢6000人の兵士を率いて戸次川を渡河します。
この瞬間を待っていたかのように島津家久率いる10000の軍が攻撃を仕掛けてきました(戸次川の戦い)。
当初は秀久たちの方が優勢でしたが、油断して突っ込んだ秀久に家久は反撃し、秀久隊は壊滅します。そこで秀久は何を思ったのか軍監の職務を放棄して我先に自国の讃岐に帰ってしまいました。
この戦いで元親の嫡男、長曾我部信親と十河存保(そごうまさやす)が討死するという大敗北を喫しました。
当然、これに秀吉は怒り、秀久の領地を没収し高野山へ追放しました。