たった一人で織田軍を足止めした歴戦の武者・笠井肥後守高利の壮絶な最期【後編】:4ページ目
エピローグ・戦国武士たちが遺したもの
かくして高利が大いに時間を稼いだ甲斐あって、勝頼公は這々(ほうほう)の体で甲州へと転がり込み、滝川勢は撤退せざるを得ませんでした。
その後、勝頼公がどうなったか、その末路については別稿に委ねますが、高利にまつわるエピソードをあと二つ紹介したいと思います。
今回、主君を助けるために壮絶な討死を遂げた高利ですが、高利の十二代祖先に当たる南北朝時代の武将・小山田太郎高家(おやまだの たろうたかいえ)もまた、同様の最期を遂げていたのでした。
時は建武三1336年5月25日、湊川の合戦において敗走する新田義貞の身代わりとして足利尊氏の軍勢を果敢に食い止め、討死したと言われ、一説にはそのことを予てより伝え聞いていたという高利は、祖先と同じく「主君の御為」に尊い命を奉る栄誉と奇しき因縁を感じていたのかも知れません。
そしてもう一つ、高利が奮っていた千手院の鎗ですが、相討ちの場所に失われたかと思いきや、笠井家重代の宝として、後世に伝えられているそうです。
武田家の滅亡後、高利の子である笠井孫右衛門慶秀(かさい まごゑもんよしひで)は大谷刑部少輔吉継(おおたに ぎょうぶのしょうゆうよしつぐ)に仕えます。
その頃、刑部と親交のあった井伊兵部少輔直政(いい ひょうぶのしょうゆうなおまさ)が「高利の息子が刑部の下に仕えている」と知って、戦場から人づてで入手した槍を手土産に、孫右衛門に面会を申しこみます。
「……そなたのお父上は、武者なれば斯(か)くありたしと誰もが思う立派な最期にござった……」
後に武田軍から引き継いだ「赤備え」部隊を率いて徳川家康の天下取りに活躍する「赤鬼」兵部は、高利の遺児を自分の配下に招き入れることで武田遺臣の結束を固めたい意図もあったのか、熱心に孫右衛門を説得。
話を聞いた刑部も快く送り出してくれたので、晴れて孫右衛門は兵部に仕えて懸命に奉公し、その家運を今日まで伝えていくのでした。
人は一代、名は末代……限りある命を大義に奉げた武士たちの生き方は、数百年の時を越えて、私たちの胸に熱い思いを訴えかけてくるようです。
【完】
※参考文献:
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
皆川登一郎『長篠軍記』大正二1913年9月
長篠城趾史跡保存館『長篠合戦余話』昭和四十四1969年
高坂弾正 他『甲陽軍鑑』明治二十五1892年