妻子はお江戸で人質に!?江戸時代の「参勤交代」って実際はどんなものだったの?
筆者は最近、諸事情につき実家のある横浜と東京都内で、週の半分ずつ生活をしています。まるで江戸時代の「参勤交代」のようだなと感じる今日この頃ですが、筆者の場合は仕事の都合・結婚などによりこのような生活スタイルとなりました。
実際に江戸時代の大名たちが行っていた「参勤交代」とは、どんな制度だったのでしょうか?
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そもそも参勤交代とはいつ、何のために始まったの?
参勤交代とは、江戸幕府が諸藩の大名たちを統制するために定められた政策で、簡単に言えば徳川御三家を含む大名たち(原則として1万石以上)が、「江戸詰め」と自分の領国への在国を1年交代で行うことでした。「参勤」が江戸に行くことを指し、「交代」というのが国許へ戻ることを指していました。
その始まりは、鎌倉時代の武士が「いざ鎌倉」と国許から鎌倉へ往来したことや、豊臣秀吉による「人質徴収」であったと言われています。
天下分け目の「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は秀吉が大阪に大名たちの妻子を人質として住まわせていたのと同じように、江戸に「大名屋敷」を設け、大名の妻と子供を住まわせました。
この際、義務として江戸に住まなければならなかったのは各大名の正室と世継ぎとなる子供だけで、側室や世継ぎではない子供は国許に残っても良いとされていました。
各大名は、偶数年に江戸に行くグループと奇数年に行くグループに分けられ、隣接した藩の大名同士は意図的に別のグループとされるなどの決まりもありました。
大名の「参勤」と「交代」は原則として1年交代と定められていましたが、これには例外がありました。例えば関東の大名は、参勤交代の周期は1年ではなく半年でした。
また対馬の宗氏・北海道の松前氏・長崎の黒田氏と鍋島氏などは、遠隔地であること、朝鮮半島などとの外交窓口を担当していたことなどを理由に、それぞれ3年~6年に加減されていました。