前田利長も細川忠興も「羽柴」だった!? 豊臣秀吉が諸大名に自分の名字を“大盤振る舞い”した本当の理由
羽柴中納言・羽柴伊賀侍従・羽柴若狭侍従・羽柴丹後少将・羽柴越中侍従・羽柴松島侍従・羽柴岐阜侍従……。
なんでしょう、これは?まさに「羽柴」の大行列の様相を呈しているではありませんか。
実はこれ、1587年(天正15年)正月1日付の『羽柴秀吉朱印状写(島津文書)』に記された諸大名の一部なのです。
そして彼らの本名は、豊臣秀長・筒井定次・丹羽長重・羽柴秀勝・前田利長・蒲生氏郷・池田照政。
もちろん、ここに挙げた羽柴名字の大名はごく一部で、豊臣秀吉の命によって「羽柴」を名乗った、いや、名乗らされた大名はもっとたくさんいたのです。
今回は、秀吉による「羽柴」の大盤振る舞いが、なぜ行われたのかをひも解いていきましょう。
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秀吉は「木下」から「豊臣」へ、五つの名乗りを使った
豊臣秀吉(池松壮亮)が、最初の「木下」から最後の「豊臣」に至るまで、生涯にわたって五つの姓・名字を名乗ったことをご存じでしょうか。
「えっ、秀吉と言えば、木下・羽柴・豊臣じゃないの?」そういぶかしむ人も多いのではないでしょうか。
実は秀吉は、このほかにも「平」「藤原」を称しています。その変遷をたどると、木下→羽柴→平→藤原→豊臣となります。
最初に名乗った「木下」は、寧々(浜辺美波)と結婚した頃から、北近江の大名・浅井長政(中島歩)が滅亡する頃まで用いていたと考えられ、
年号でいえば、1561年(永禄4年)から1573年(元亀4年/天正元年)頃でしょうか。
そして、本題の「羽柴」です。この名乗りは、織田家の重臣である丹羽長秀(池田鉄洋)と柴田勝家(山口馬木也)の名字から一字ずつ取って付けられたとする説が知られています。6月9日放映の「清須会議」で、秀吉がまんまとだました二人ですね。秀吉にとって「羽柴」は、その後の出世を象徴する重要な名乗りとなりました。
そして、本能寺の変を境に、秀吉の立場は大きく変化します。変直後の山崎の戦いで明智光秀(要潤)を破ると、秀吉は織田家中で急速に台頭。勝家や長秀らをしのぐ勢力となり、やがて織田一門衆の織田信孝(結木滉星)や織田信雄(山脇辰哉)を追い詰め、さらに徳川家康(松下洸平)さえも臣従し、秀吉は天下人への道を突き進んでいくことになります。
こうしたなか、秀吉はさらなる権威付けを図ります。まず「平」姓を称し、「平秀吉」と名乗りました。さらに1585年(天正13年)、朝廷から関白宣下を受けるにあたり、近衛前久の猶子となって「藤原」姓を称します。
そして1586年(天正14年)、ついに朝廷から新たな氏である「豊臣」を賜り、「豊臣秀吉」と名乗るようになるのです。
後世の我々は、何の疑問も持たず秀吉を「豊臣秀吉」と呼んでいます。しかし豊臣氏の成立は、源・平・藤原・橘という伝統的な名族に並ぶ新たな氏を創設するという、極めて異例の出来事でした。
こうして秀吉は豊臣氏の氏長者となり、弟の秀長(仲野太賀)も「豊臣秀長」と名乗るようになります。


