【豊臣兄弟!】主君・別所長治に切腹を勧めた別所重棟(忍成修吾)とは?主家滅亡を背負った男の生涯
若き別所長治(下川恭平)を補佐してきた別所重棟(忍成修吾)は、長治の寝返りを止められず、決別することになりました。果たして両者は、それぞれどのような末路をたどるのでしょうか。
今回は別所重棟(べっしょ しげむね。別所重宗とも)の生涯をたどってみたいと思います、大河ドラマ「豊臣兄弟!」を楽しむご参考にどうぞ。
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後見人同士の対立
別所重棟は生年不詳、三木城主・別所就治(なりはる)の三男として誕生しました。
通称は孫右衛門(まごゑもん)、兄弟に別所安治(やすはる)・別所賀相(田中美央)・別所治之(はるゆき)・別所治友(はるとも)らがいます。
長兄の安治が永禄11年(1568年)に隠居し、その嫡男である長治が家督を継ぐと、重棟は次兄の賀相と共に長治を後見しました。
しかし賀相との関係は必ずしも良好ではなかったそうです。両者は長治の補佐方針で対立しており、永禄12年(1569年)に重棟が武功を立てると、足利義昭(尾上右近)からの高評価を鼻にかけて増長したと言います。
永禄13年(1570年)に織田信長(小栗旬)が諸大名に上洛を促した時は、長治と重棟に対してそれぞれ対象とされました。
つまり長治と重棟は、本家と別家の関係(共に独立した存在)と見なされていたことになります。長治の後見人である賀相は(たとえ実権を握っていたにせよ)彼らより一段下、これでは面白くありません。
重棟は足利・織田派として忠義を尽くす一方、賀相は何とか離反の機会をうかがっていたようです。
やがて天正5年(1577年)に羽柴秀吉(池松壮亮)が播磨平定に乗り込んでくると、重棟は長治と共に臣従しました。秀吉は播磨支配を磐石にしようと、重棟の娘と黒田官兵衛(倉悠貴)の嫡男である黒田松寿丸(しょうじゅまる)との縁談を進めます。
しかしこれは別所家を、秀吉家臣である黒田家と同格≒つまり秀吉より格下として扱う態度に他なりません。
秀吉の傲慢な態度に腹を立てた長治は天正6年(1578年)に叛旗を翻しました。思いとどまるよう説得に失敗した重棟は、長治を見限って織田への忠義を貫きます。


