【豊臣兄弟!】主君・別所長治に切腹を勧めた別所重棟(忍成修吾)とは?主家滅亡を背負った男の生涯:2ページ目
長治らに引導を渡す
しかしそれは対別所戦の最前線に立たされるのと同義であり、さっそく重棟の治める阿閇城(あえじょう。兵庫県加古川市)が、別所・毛利・雑賀衆に攻め立てられました。
この時は官兵衛の支援を受けて何とか城を守り抜き、今後は攻勢に転じて野口城(加古川市)攻めに加勢。重棟は負傷しています。
それでもひるまず高砂城(高砂市)を攻めるなど、織田に忠義を貫きますが、そうしないといつ内通の疑いをかけられるか分かったものではありません。
一方旧主の長治らが立て籠もっていた三木城は絶賛「干殺し(兵糧攻め)」真っ最中。天正8年(1580年)になると重棟が使者に立ち、城兵の助命と引き換えに、長治・賀相・別所友之(ともゆき。長治弟)の切腹を勧めました。
長治らはそれを受け入れ、ついに三木城が開かれ、戦国大名としての名門・別所氏は滅亡します。
故ありとは言っても主君に叛旗を翻した自責の念からか、重棟はこのころに出家したようで、天正13年(1585年)の史料では別所「孫右入(入道)」と記録されていました。
ただし出家はしても隠居したわけではなく、天正13年(1585年)に秀吉から但馬国八木城1万2千石(兵庫県養父市)を与えられます。
そして九州征伐や小田原征伐など秀吉の天下一統を見届け、天正19年(1591年)6月6日に世を去りました。
戒名は徳厳院貞岳(とくげんいんじょうがく)、家督は嫡男の別所吉治(よしはる)が受け継いでいます。
終わりに
今回は別所長治の叔父であり後見人として活躍した別所重棟について、その生涯をたどってきました。
相応に立身出世したとは言え、主家の滅亡に加担してしまった呵責は、決して小さくなかったのではないでしょうか。
果たして大河ドラマでは重棟が旧主らにどのような引導を渡すのか、忍成修吾の熱演に期待しています。
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※参考文献:
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年10月
- 渡邊大門 編『信長軍の合戦史 1560–1582』吉川弘文館、2016年6月


