清須会議で秀吉の“天下取り確定”は間違い!三法師を抱えた織田信孝と「ポスト信長」をめぐる権力闘争
三法師と信孝
羽柴(豊臣)秀吉は、本能寺の変から明智光秀の死を経てすぐに「ポスト信長」の実権を握ったといわれています。
それが、中国大返しなどのそれまでの実績が認められた結果なのは間違いありませんが、特に重要なポイントが1582年(天正10年)の清須会議だと言われています。
清須会議は織田信長の後継者と領地配分を決めるために開催された会議で、ここで秀吉が巧みな根回しで主導権を握り、のちの天下人への足がかりを築いていったとされています。
しかし、この会議で秀吉が一気に権力を掌握したとする見方はやや短絡的です。実は、秀吉が本当に権力を掌握することになったのは、むしろ清須会議の後の動向が大きなポイントだったと言えるのです。
当時の実際の流れについて解説しましょう。
清須会議のあと、わずか三歳で家督を継ぐことが決まった三法師(織田信長の嫡孫でのちの織田秀信)は本来なら安土に入るはずでした。
しかし城は焼けており、修復までの間は岐阜に移されます。ここで三法師を保護したのが織田信孝でした。
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家督を抱えた信孝は、公家や寺社の要望に応じるなど政治的な存在感を強めていきます。清須会議直後の主導権は、むしろ信孝に傾いていたと見られます。
一方で秀吉は山城を得て山崎に新しい城を築き、京都の支配に乗り出していました。
信孝が三法師を抱え、秀吉が京都へ勢力を伸ばすという構図は、利害が自然にぶつかる状況を生みます。
秀吉は安土城の修築を急がせ、三法師を早く安土へ移そうとしましたが、信孝はこれを拒みました。
秀吉の動きを主導権を奪う行為と見た信孝は反発し、柴田勝家もこれに寄り添います。反秀吉の軸がここで形づくられていきました。

