清須会議で秀吉の“天下取り確定”は間違い!三法師を抱えた織田信孝と「ポスト信長」をめぐる権力闘争:2ページ目
葬儀と深まる溝
十月、秀吉が主導して京都で信長の葬儀を行ったことが、対立を決定的にしました。
喪主は秀吉の養子である秀勝が務め、丹羽や池田らは代理を送りましたが、勝家と信孝は反発して不参加を選びます。
葬儀は秀吉が織田家中で発言力を高める場として機能したと考えられますが、同時に反秀吉勢力の不信を強める結果にもなりました。
葬儀後、信孝は和解を試みましたが、秀吉は書状で自らの忠義を強調し、柴田勝家を「織田体制」から排除すべき存在として扱う姿勢を示します。
丹羽や池田を味方につけた秀吉は、家中での優位を固める方向へ動き始めました。
信孝が三法師の安土移動を拒んだことも、秀吉にとっては清須会議の決定に反する行為と映り、対立はさらに深まります。
勝家や滝川らは自分たちが排除されつつあると感じ、信雄と秀吉に対抗する姿勢を固めていきました。
