【豊臣兄弟!】後に藤吉郎(秀吉)を支える義兄弟──前野長康と蜂須賀正勝、明暗別れたそれぞれの末路
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」、2月22日(日)に放送されたの第7回「決死の築城作戦」で、美濃攻略のため、墨俣に砦を築くよう命じられた小一郎(仲野太賀)と藤吉郎秀吉(池松壮亮)。
尾張と美濃の国境を仕切る川並衆の棟梁・蜂須賀正勝(高橋努)を仲間に取り込むため、仲介役として、正勝とよしみのある織田家臣・前野長康(渋谷謙人)と共に正勝のもとへ。
ドラマでも描かれていたように、正勝と長康はかつて「義兄弟の契り」を結んだ仲。次週はいよいよ築砦が本格化すると思われ、両者にもスポットが当てられると思いますが、今回は前野長康と蜂須賀正勝について、それぞれの生涯をたどります。
前野長康(渋谷謙人)とは何者?
織田家の家臣
正勝と義兄弟の契りを結ぶも、織田家に仕えたため疎遠に。豊臣兄弟から、正勝との橋渡しを頼まれる。
※NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイトより。
大永8年(1528年)生~文禄4年(1595年)8月19日没
前野長康(まえの ながやす)は岩倉織田家(織田伊勢守家)で奉行を務めていた前野宗康(むねやす)の次男として誕生しました。
通称を小太郎(こたろう)または小右衛門(しょうゑもん)と言い、後に但馬守(たじまのかみ)に叙せられます。
別名を光景(みつかげ)とも言い、『寛政重脩諸家譜』では坪内勝定(つぼうち かつさだ)の長男とされていますが、二人は8歳しか年齢差がありません。そのため、勝定の娘婿だったと考えるのが自然でしょう。
『武功夜話』によれば、蜂須賀正勝(小六)とは義兄弟の契りを交わしていたとされ、同時期に秀吉の与力となったようです。
秀吉に仕えた最古参の一人であり、天正11年(1583年)に秀吉と柴田勝家(山口馬木也)が雌雄を決した賤ヶ岳の合戦で武功を立て、播磨三木城主(兵庫県三木市)となりました。
その後も四国平定(長宗我部征伐)の武功によって但馬国出石57,000石を領する大名となり、九州平定(島津征伐)や関東平定(小田原征伐)にも参陣。ついに秀吉の天下一統を見届けたのです。
続く文禄の役(第一次朝鮮征伐)では民政担当として石田三成らと共に渡海していることから、武辺のみならず政治の力にも才能を発揮したことがわかります。
帰国後は関白・豊臣秀次(秀吉の甥で養子)の後見役を任されますが、文禄4年(1595年)7月に秀次が切腹に追い込まれると(秀次事件)、連帯責任で切腹させられました。享年68歳。

