出世と贅沢の果てに転落…秀吉に重用された豪商・呂宋助左衛門、石田三成の摘発で国外逃亡!
豊臣秀吉が法外な値をつけ、大名たちに“買わせた”茶壺——その仕掛け人が、堺の豪商「呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)」でした。
現地ではただの日用品だった壺を、天下人の「茶の権威」に変えてしまった男。まさに戦国のマーケターです。しかも彼は、権力に媚びず海を渡り、稼ぎ、危なくなれば一瞬で逃げ切る…商魂たくましい人物。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる“天下人・秀吉”の影で、商人たちはどう立ち回っていたのか?呂宋助左衛門の成り上がりを追います。
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海を渡った自由都市の豪商
呂宋助左衛門は、安土桃山時代に実在した和泉国堺の商人です。既存の権力に媚びず、海外貿易というに命を懸けたフロンティア精神あふれる人物として知られています。
本名は納屋才助(なや・さいすけ)。堺の豪商・納屋衆の一族として生まれました。彼が歴史の表舞台に登場するのは、文禄の役のころ(1590年代前半)です。
当時、堺の商人は海外へ積極的に進出していましたが、彼はフィリピンのルソン島(現在のマニラ付近)へと渡ります。
そこで彼が目をつけたのは、現地では日用品として使われていた「茶器に適した壺」でした。
豊臣秀吉に紹介した「壺」とは
1594年(文禄3年)、助左衛門はルソンから持ち帰った「呂宋壺(るそんつぼ)」を、時の最高権力者・豊臣秀吉に献上します。
この頃の豊臣秀吉は、伏見城の築城と周辺の治水事業(伏見港・太閤堤)に着手し、本拠地を大坂から伏見へ移す準備を進めるなど、天下人として絶好調の時代。吉野での盛大な花見の宴を催したほか、全国的な太閤検地も継続実施するなど、支配体制を強化していました。
そんな秀吉に、助左衛門は現地では単なる安物の日用品だった壺を「茶壷」として売りつけます。現地での価値を知らない大名や茶人たちの目には、その素朴な風合いが「逸品」と映ったようです。
壺はフィリピンで作られたものではなく、多くは明(中国)からルソン経由で渡った物が多かったようです。ですので、ルソン壺は「唐物茶壺」とも称されていました。
茶色など地味な色で、どっしりとした風合い、釉薬の垂れが特徴です。


