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大河「べらぼう」寛政の改革により閉門処分…”県門の四天王”と称された加藤千蔭(中山秀征)の生涯

大河「べらぼう」寛政の改革により閉門処分…”県門の四天王”と称された加藤千蔭(中山秀征)の生涯

おていさん(橋本愛)のアイディアを形にするため、蔦重(横浜流星)と二人で加藤千蔭(中山秀征)を訪ねます。

※NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」第41回放送「歌麿筆美人大首絵」より

『べらぼう』蔦重の実両親は?須原屋市兵衛その後、歌麿の胸中…10月26日放送内容の深堀り解説

須原屋市兵衛(里見浩太朗)の身上半減処分を受けて、江戸の街を再び華やかにしようと意気込む蔦重(横浜流星)。書を以て世を耕す精神は、身上半減なんかで潰えはしない……苦境にあって、ますます闘志を燃やすので…

寛政の改革によって閉門処分を受けていたそうですが、彼は何者だったのでしょうか。

今回は加藤千蔭(かとう ちかげ)について、その生涯をたどってみたいと思います。

武士から文化人へ

加藤千蔭は享保20年(1735年)3月9日、江戸奉行与力を勤めていた加藤枝直(しげただ)の子として誕生しました。

本姓は橘氏。元服して通称を又左衛門(またざゑもん)、字を常世麿(ところまろ)、号に芳宜園(ほうぎえん)などと名乗ります。

父から家督を受け継いで公務につき、宝暦13年(1763年)に町奉行吟味役、やがて父と同じく江戸奉行与力となりました。

天明8年(1788年)に病気のため与力を辞職。田沼政権の崩壊にともなって身を引いたものと考えられますが、松平定信らの追及を免れることはできません。

千蔭は旧田沼派の一人として閉門処分を受け、以降は学問に専念するようになります。

若くから諸学に親しんでいた千蔭は賀茂真淵(かもの まぶち)に師事。国学を修め、やがて県門の四天王と称されるほどの才覚を示しました。

【県門の四天王】

  • 加藤千蔭
  • 楫取魚彦(かとり なひこ)
  • 河津美樹(かわづ うまき)
  • 村田春海(むらた はるみ)

また本居宣長(もとおり のりなが)とも同門で、後にその協力を得て『万葉集略解』を出版しています。

ほか書を松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう)に学び、画は建部綾足(たけべの あやたり)に教えを受けました。

いっぽう門人も多く、著名なところでは大石千引(おおいし ちびき)・岡田真澄(おかだ ますみ)・清原雄風(きよはら たけかぜ)・窪田清音(くぼた すがね)らがいます。

他にも曲亭馬琴(滝沢瑣吉)が書を学んでいるなど、江戸後期の文化人たちに多大な影響を与えていました。

文化5年(1808年)9月2日に73歳で世を去り、回向院(えこういん。東京都墨田区)に葬られます。

「橘千蔭之墓」と刻まれた墓碑は千蔭が生前に自書したものと伝わり、東京都の旧跡に指定されました。

2ページ目 文化面への影響

 

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