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2026年大河【豊臣兄弟!】主人公・豊臣秀長(仲野太賀)をとりまく正室や側室、妾たちの顔ぶれ紹介

2026年大河【豊臣兄弟!】主人公・豊臣秀長(仲野太賀)をとりまく正室や側室、妾たちの顔ぶれ紹介

令和8年(2026年)NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」皆さんも楽しみにしていますか?

どうする家康(令和5・2023年)以来3年ぶりとなる戦国大河。歴史ファンにとって鉄板だからこそ、成否にプレッシャーがかかるかも知れませんが……。

今回は主人公の豊臣秀長(仲野太賀)の妻たちを紹介。ヒロインである正室・慶(吉岡里帆)ほか、大河ドラマの予習にどうぞ!

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秀長の正室・慈雲院

  • 生没:生没年不詳
  • 実名:不詳
  • 別名:智雲院、慈雲院芳室紹慶
  • 家族:不詳
  • 子女:羽柴与一郎か?
  • 養子:岩(智勝院)、おきく(大善院)、羽柴秀保など
  • 備考:役名の慶は慈雲院芳室紹「慶」から。

出身や家族について、詳しいことは分かっておらず、謎の多い女性です。

秀長との出会いなどについても不明。ただし嫡男の与一郎が天正10年(1582年)ごろに亡くなっており、その時点で通称を名乗っていた≒元服していた(15歳ごろ)ことから逆算して、結婚時期を永禄9~10年(1566~1567年)とする説もあります。

当時の結婚適齢期が15~18歳ごろであるため、そこからさらに逆算すると、天文19年(1550)ごろの生まれだったのかも知れません。

また秀長は信長の直臣となっており、家格の釣り合いを考えると、彼女の実家も尾張または美濃の織田家直臣であった可能性が考えられます。

天正13年(1585年)に秀長が大和国を与えられたことに伴い、彼女も大和郡山城へ移り住んで来ました。

姑の大政所(仲)とは関係が良好だったようで、天正14年(1586年)から天正18年(1590年)にかけて、何度も一緒に春日大社へ参拝しています。

豊臣政権の屋台骨を支えていた秀長の正室として外交の機会もあり、徳川家康や毛利輝元といった大大名から贈り物を受け取ることもありました。

天正17年(1589年)に秀吉が諸大名の妻を人質にとった際は、彼女も上洛します。翌天正18年(1590年)に入ると秀長の病状が重篤化したので、たびたび平癒の祈祷を行ったそうです。

そして天正19年(1591年)に秀長が世を去ると、人々から大和大方(やまとのおおかた)と呼ばれ、出家した後は慈雲院と号しました。

同年2月に千利休の連座として大徳寺の僧・古渓宗陳(こけい そうちん)らが磔刑に処されかけた時は、大政所と共に秀吉へ助命嘆願を行い、執行を免じられています。

文禄4年(1595年)4月に婿の豊臣秀保が夭折すると秀長の家系は断絶。その所領は増田長盛(ました ながもり)に与えられ、慈雲院らは立ち去りました。

その後の居所については詳しく分かっていませんが、慶長10年(1605年)に彼女が大和国内に4村(中之庄村・窪之庄村・山村・高樋村)2,000石を知行しています。

元和年間(1615–1624年)にはこれら4村が天領(幕府の直轄領)となっているため、慈雲院はこれ以前に亡くなったのでしょう。

2ページ目 秀長の側室・光秀尼

 

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