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2026年大河【豊臣兄弟!】主人公・豊臣秀長(仲野太賀)をとりまく正室や側室、妾たちの顔ぶれ紹介

2026年大河【豊臣兄弟!】主人公・豊臣秀長(仲野太賀)をとりまく正室や側室、妾たちの顔ぶれ紹介:2ページ目

秀長の側室・光秀尼

  • 生没:天文21年(1552年)生〜元和8年(1622年)2月8日没
  • 実名:不詳→お藤(還俗後)
  • 別名:摂取院光秀、興俊尼、秋篠ノ沙弥
  • 家族:父親 秋篠伝左衛門/母親 鷹山頼円女
  • 子女:女子(豊臣秀母室)、おきく(大善院)か?
  • 養子:特になし
  • 備考:奈良興福院の住持を務める。

『奈良名所八重桜』によると、光秀尼は法華寺の比丘尼(びくに。尼僧)だったと言います。

ある時、秀長が法華寺を参拝した折に彼女を見初め、郡山城へ連れ帰りました。

一夜を共にした後に法華寺へ帰したものの、その後妊娠が発覚します。

寺にいられなくなってしまったため、母方の伯母である心慶尼(しんぎょうに)が住職を務める興福院(弘文院)へ身を寄せました。

いよいよ出産が近づくと、縁者である菊岡宗政(菊田宗政)の館へ移り、そこで女児を出産します。

娘は菊岡の頭文字をとったのか、おきく(後の大善院)と命名。事情を知った秀長に母子ともども郡山城へ迎えられました。

時に天正15〜16年(1587〜1588年)ごろ、還俗した光秀尼はお藤と改名します。

後におきくは中国の毛利秀元(ひでもと。輝元の子で元就の曾孫)と結婚するのですが、それはまた別の話し。

……と言われているものの『奈良名所八重』には疑問点もあり、彼女が出家したのは秀長の死後であるという説もあります。

天正19年(1591年)1月22日に秀長が世を去ると、お藤は再び出家し、心慶尼の元へ戻りました。

※ここで初めて出家した説もあり。

また天正20年(1592年)には秀長の側近となっていた父・伝左衛門が75歳で世を去っています。

文禄4年(1595年)4月に娘婿の豊臣秀保が世を去り、秀長の家系が断絶すると、彼女は秀吉から大和国新堂村(奈良県橿原市)200石を与えられました。

これは彼女個人に対するものではなく、興福院に対する寄進であったとも言われています。

元和6年(1620年)1月に心慶が亡くなると、光秀尼が跡を継いで興福院の院主となりました。

そして元和8年(1622年)2月8日に71歳で世を去ります。法名は藤誉光秀大姉(とうよ こうしゅうだいし)・摂取院藤誉光秀比丘尼(せっしゅいん とうよこうしゅうびくに)。興福院に祀られています。

3ページ目 秀長の妾?大善院母

 

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