「べらぼう」時代のもう一人の才人──蔦重と同時代に活躍した戯作者・梅暮里谷峨の作品と生涯をたどる
NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」でその生涯が描かれている、蔦屋重三郎(横浜流星)たちが活躍した18世紀後半のお江戸では、黄表紙文化が沸き興り、時代の徒花を咲かせました。
今回はそんな戯作者の一人・梅暮里谷峨(うめぼり こくが)を紹介。劇中には登場していませんが、どんな活躍をしたのでしょうか。
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寛政の改革で黄表紙を自粛
梅暮里谷峨は寛延3年(1750年)、上総国で久留里藩士の反町(そりまち)家に生まれました。蔦重と同い年ですね。
幼名は反町三郎助(さぶろうすけ)、元服して反町与左衛門(よざゑもん)と名乗ります。
36歳となった天明5年(1785年)に出仕し、天明8年(1788年)に初めての黄表紙『青楼五雁金(せいろう いつつかりがね)』を出版しました。
筆名の梅暮里とは、久留里藩邸があった本所埋堀(うめぼり)の地名、谷峨は母方の姓名からとっています。
ほか梅月堂梶人(ばいげつどう かじんど)・蕣亭(しゅんてい)・遊里山人(ゆうりさんじん)などと名乗りました。
※これらの書名は別人物とする説もあり。
続いて寛政2年(1790年)に『文選臥坐(もんぜんがざ)』と『染抜五所紋(そめぬき いつどころもん)』を出版します。
しかし時はまさに出版統制の嵐が吹き荒れる最中。しばらく文筆活動は自粛したようです。
やがて45歳となった寛政6年(1794年)には家督を相続。50石取の馬廻席となりました。
のち江戸詰の大目付に抜擢されており、能力と勤勉さが評価されたのでしょう。
2ページ目 復帰後は黄表紙界を牽引
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