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「べらぼう」時代のもう一人の才人──蔦重と同時代に活躍した戯作者・梅暮里谷峨の作品と生涯をたどる

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復帰後は黄表紙界を牽引

かくして一度は筆を置いた梅暮里谷峨ですが、寛政10年(1798年)から文筆活動を再開。多くの作品を世に送り出しました。

  • 『傾城買二筋道(けいせいがい ふたすじのみち)』寛政10年(1798年)
  • 『契情買心得(けいせいがい こころえ)』寛政11年(1799年)
  • 『二筋道後篇廓の癖(ふたすじみち こうへん くるわのくせ)』寛政11年(1799年)
  • 『白狐通(びゃっこつう)』寛政12年(1800年)
  • 『夢之盗汗(ゆめの ねあせ)』享和元年(1801年)
  • 『廓の桜(くるわのさくら)』享和元年(1801年)
  • 『妓情返夢解(ぎじょうへんむかい)』享和2年(1802年)
  • 『甲子夜話 後編婭意妃(きのえねやわ こうへん あいがえし)』享和2年(1802年)
  • 『山桝太夫栄枯物語(さんしょうだゆう えいこものがたり)』文化6年(1809年)

他にも出版年の不明な『加之久全伝香篭艸(かしくぜんでん かごめぐさ)』『二筋道三篇霄の程(ふたすじみち さんぺん よいのほど)』などを出版します。

タイトルを見ると遊郭関係の作品が多く、なかなかの遊び人だったのかも知れませんね。

終わりに

かくして江戸末期の黄表紙界を牽引する存在として活躍した梅暮里谷峨は、文政4年(1821年)9月3日に72歳で世を去りました。

死後に旗本の萩原乙彦(はぎわら おとひこ)が二代目を自称。梅暮里谷峨の名がブランドとして確立されていたのでしょう。

江戸後期から末期には他にも多くの戯作者が活躍していたので、また紹介したいと思います。

※参考文献:

 

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