「万葉集」編纂者で反骨の貴族・大伴家持の壮絶人生──左遷・密告・そして汚名【前編】
日本最古の歌集『万葉集』の編纂者と伝えられる大伴家持(おおとものやかもち)。彼は、天皇や貴族のみならず、遠く東国や九州の庶民の歌までも収めた万葉歌人として広く知られている。
しかしその出自は、神代より大王(天皇)家に仕え、親衛隊とも称される軍事貴族・大伴氏であり、その精神は常に大王家の安泰に向けられていた。
家持が生きた奈良時代は、天皇制が成熟する一方で、藤原氏を中心とした貴族同士の争いが激しさを増していた時代でもある。
そうした中、家持は時に一族の暴発を諫めつつ、幾度も政変に巻き込まれながら大伴氏を生き残らせた。
そんな大伴家持の人生を、武人と歌人という二つの側面から2回に分けてたどってみたい。まず[前編]では、家持の生涯をダイジェストで追っていこう。
名門大伴氏の誇りと反骨精神を受け継ぐ
大伴家持は、718年(養老2年)前後に誕生したと伝えられている。
この年は、平城京(奈良)への遷都からちょうど10年目にあたり、律令制のさらなる完成を目指して、藤原不比等らが大宝律令を発展させた養老律令を新たに制定した時期でもあった。
家持の父・大伴旅人は、九州の隼人族の反乱鎮圧などで功績を挙げた軍事貴族であった。隼人の反乱を平定した翌年の721年(養老5年)には従三位に叙せられ、さらにその3年後、聖武天皇の即位に伴い正三位となって公卿に列した。
そして728年(神亀5年)頃、旅人は大宰帥として大宰府に赴任する。当時、平城京では藤原不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が、妹・光明子を聖武天皇の皇后に立てるべく動いていた。
これに反対した長屋王は翌729年、謀反の罪を着せられて自害に追い込まれている。このことから、旅人の大宰府赴任は長屋王排除に際し、旅人の存在が聖武天皇および藤原四兄弟にとって障害となるのを避けるためであったとする説もある。すなわち、軍事的実力を誇る旅人が長屋王側につけば厄介なことになると考えられた、というのである。
しかし、結果的に旅人は事件に直接関与せず、3年後には帰京して従二位に昇進した。ただし、太宰府在任中に催した「梅花の宴」(のちの元号「令和」の典拠となった宴)は、長屋王事件に対する一種の抗議であったとみる説もある。
このような旅人を父に持つ家持は、名門大伴氏の誇りと反骨精神を受け継ぎ、やがて朝廷を席巻する藤原仲麻呂を中心とする藤原氏に屈することなく、その生涯を歩むこととなったのである。

