家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】
上野国の土豪として始まり、やがて豊臣秀吉の傘下に入り、さらに独立大名として戦国の世を颯爽と駆け抜けた真田一族。
その真田一族の中でも、真田幸隆・昌幸・信繁・信幸の三代にわたる事績を紹介していく。
今回は、兄二人の死によって真田家の家督を継ぎ、徳川家康に二度までも煮え湯を飲ませた、知将・真田昌幸を2回にわたり紹介しよう。
数々の戦功で信玄の絶対的な信用を得る
真田氏の実質上の二代目が真田昌幸であり、真田信繁の父にあたる。
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昌幸は、真田氏を再興した真田幸隆の三男として1547年(天文16)、甲府で生まれたと推測されている。
7歳のとき、昌幸は武田信玄の近習として武田家に出仕したが、父・幸隆が外様の先方衆であったためか、人質待遇であったともいわれている。
しかし、奥近習衆として信玄の信頼を得ると、甲斐の名族で名跡が絶えていた武藤氏の養子となり、「武藤喜兵衛」と名乗るようになる。これは、同母兄に嫡男・信綱、次男・昌輝がいたため、昌幸が真田家の家督を継ぐ可能性が低かったことによると考えられる。
1567年(永禄10)、武田勝頼の嫡男・信勝が誕生した際には、武田家宿老である山県昌景、馬場信春、内藤昌豊、土屋昌続らとともに、信玄の使者を務めており、昌幸はこの頃すでに重臣、あるいはそれに準ずる地位にあったと見られている。
その後も、1569年(永禄12)の北条氏との三増峠の戦いや、1572年(元亀3)の信玄による西上作戦における三方ヶ原の戦いなどで、信玄麾下の将として数々の戦功を重ねた。
その結果、信玄をして「わが両眼の如き者」とまで言わしめるほどの、絶大な信頼を得るに至ったのである。



