家康を二度破った知将・真田昌幸 武田信玄に“我が両眼の如し”と称された伝説的な戦功の数々【前編】:3ページ目
天正正午の乱と第一次上田合戦の勝利
武田家滅亡後、昌幸は本領の真田とともに上野の一部を領有する戦国大名として独立した道を歩むようになる。
しかし、武田滅亡からわずか3か月後に本能寺の変が起き信長が討たれると、武田旧領をめぐり徳川氏と北条氏が争う「天正正午の乱」が勃発した。この乱は、信長の子・織田信雄の仲介で講和が成り立つが、甲斐・信濃は徳川家康に、上野は北条氏政が切り取り次第と決まったのである。
こうして1585(天正13)年、家康は昌幸に上野の沼田領と吾妻領を北条氏に返還することを迫る。これに対し、昌幸は上田城に本拠を移し、越後の上杉景勝に次男・信繁を人質として送り、徳川氏に反旗を翻した。
この動きをみた家康は、真田氏の討伐を決意し上田を攻めた。これが「第一次上田合戦」である。この合戦での兵力は徳川勢7,000人に対して真田勢は1,200人ほどといわれる。
しかし、5倍以上の兵力差を昌幸は巧みな戦術で乗り切った。昌幸は上田城下の奥まで徳川勢を引き込むと、その軍勢に伏兵をもって火を放った。城下を焦がす紅蓮の炎に煽られ、退却しようとする徳川勢に長男・信之の別動隊が横矢を入れる。
さらに昌幸率いる本隊が大手門から突出して、一斉射撃の後に襲い掛かった。この攻撃に徳川勢は1,300余の将兵を失った。対して真田勢の犠牲はわずか40人ほどであったという。
「第一次上田合戦」は、真田方の大勝利に終わった。昌幸は、上田城をさらに堅城とすべく普請と拡大を続けた。これが後の「第二次上田合戦」に活かされていくのである。
さて、[前編]はここまで。[後編]では豊臣秀吉麾下の大名となった真田昌幸についてお話ししよう。
【後編】の記事はこちら↓
徳川家康を二度破った知将・真田昌幸 豊臣秀吉が“表裏比興の者”と称した男の最期【後編】
上野国の土豪として始まり、やがて豊臣秀吉の傘下に入り、さらに独立大名として戦国の世を颯爽と駆け抜けた真田一族。その真田一族の中でも、真田幸隆・昌幸・信繁・信幸の三代にわたる事績を紹介していく。…
※参考文献
高野晃彰著・編集 『真田幸村歴史トラベル 英傑三代の地をめぐる』メイツユニバーサルコンテンツ刊



